カカシが店で働くようになってから、少し変わった事がある。 入ってから2、3日は何となくしか感じなかったが、今ははっきりと確信に変わった。 女性客が増えたのだ。 1週間もすると、我先にと開店早々から女性のお客さんが訪れるようになった。 カカシもお客さんに応えるようにほぼ毎日、イルカと同じく開店前から閉店後まで働いている。 どうせ、お小遣い稼ぎ程度の収入で充分なのだろうと思っていたイルカには意外としか言いようがなかった。 実際、アルバイト店員の中には、イルカと違って生活を営むためではなくても働いている人がいる。 そういう人は、希望通りの収入と女性との出会いが目当てでこの職種を選ぶ。 だけど、カカシの場合は何かが違う。 女性の方から寄って来そうな容姿を持っている人が、いちいち出会いを求めるために働くだろうか。 そもそも、どこか裕福な匂いのするカカシが、学生の身で長時間働く事はないだろう。 イルカから積極的にカカシと話そうとしないので本当の所は解らないが、お客さんとの会話を聞く限りでは、カカシの育ちの良さが伝わってくる。 嫌味ではない上品な口調と、女性に馴れていそうな言葉の使い方、会話の地盤になる知識の豊富さ。 どれもイルカにはないものだ。 何より、カカシのおかげで店の売り上げが伸びている。 カカシがカウンターに入っているだけで、閉店までカウンター席が埋まっている日もあった。 外見が良くて、内面も充実していて、仕事も人一倍出来る男。 そんな人が、この店で働く事に固執していた理由がはっきりしない。 金持ちの気まぐれか、イルカへの巧妙な嫌がらせか。 後者については今でも半信半疑だ。 カカシがそんな卑劣な人ではないという事は、短い間にイルカにも見えてきた。 でも、それでも信じきれいないのは、先日配られた翌月の勤務表を見たせいだ。 今月と比べて、来月のイルカの勤務日数や勤務時間が大幅に削られ、その分カカシが勤務する日数と時間が増えていた。 店側にしてみたら、同じ時間働いてもらうなら能力の高い方を選ぶのは当然だ。 でもイルカには生活が掛かっている。 再来月には、更にイルカの勤務時間が減っているかもしれない。 今の暮らしだって余裕がある訳じゃないのに、これ以上苦しくなると大学に通う事が難しくなる。 そんな不安が頭から離れない状態で働いていたら、立て続けにミスをした。 今日はグラスを2個も割ってしまい、ガラスの破片を拾い集めている時に指を切った。 近くにいたお客さんに丁寧に詫びてから、奥のスタッフルームに逃げ込む。 絆創膏を探していると、見やすい所に貼られた勤務表が目に入った。 唇を噛んで目を逸らし、再び絆創膏を探し始める。 「大丈夫?」 声を掛けてきたのはカカシだった。 カウンターにはカカシ目当てのお客さんがたくさん待っているのに。 店がにぎわっている時間に、稼ぎ頭のカカシを裏に来させてしまった事への罪悪感が胸の内に広がった。 「あ、はい。俺は平気なんで、はたけさんはホールに戻って下さい」 カカシに背を向けたままで言い、雑然とした棚の中を探っていると、何とも言えない虚しさが込み上げた。 この店にはもう、イルカはいらないのかもしれない。 ふと、そんな事を思った。 指を伝う血液の温かさに我に返り、したたってしまった雫を舌を伸ばして舐め取る。 ドアが閉まる音とほぼ同時に、イルカの左肩に人の手が触れた。 視界が急に影になり、誰かがイルカの後ろから覆い被さるように接近しているのが解る。 「これでしょ」 イルカの頭上にカカシの手が伸び、ロッカーの上にあった箱を掴んで下りてきた。 救急箱がイルカの目の前に差し出される。 イルカだって人並みの背丈はあるのだけど、カカシはそれよりも長身だから、ロッカーの上に置いてあった救急箱に逸早く気付いたのだろう。 「すいません」 お礼と申し訳なさを込めて言う。 カカシに促されて椅子に座ると、カカシもイルカの前に椅子を持ってきて向かい合わせに座った。 何を言われるのだろうと思って身構えていたら、カカシが救急箱から出した消毒液をティッシュに吹き掛け、イルカの手を取って、几帳面に指を払拭していった。 カカシはその間ずっと無言で、最後に絆創膏を貼るまで結局一度もイルカの顔を見る事なく処置を終えた。 常々カカシに好かれていないとは思っていたけれど、嫌いだったらこんな事しなければいいのにと思う。 カカシが立ち上がり、元の位置に救急箱を片付ける。 「すいません、ありがとうございました」 「どういたしまして」 カカシはイルカから顔を逸らしてホールに戻って行った。 右手の中指に貼られた絆創膏を一瞥して、イルカも一足遅れてホールに戻る。 ホールは相変わらず忙しそうで、でもイルカがいなくても事足りている様子だった。 それを見て、イルカは勤務予定が組まれている来月末で店を辞める事を決意した。 * * * * * 翌月に入り、バーのアルバイトが入っていない日を利用して、新しいアルバイトを探し始めた。 飲食店なら、まかないを食べさせてくれる所と決めている。 同じ学部の友人に相談すると、飲食店ではなく家庭教師のアルバイトを提案してくれた。 たまたまサークルの打ち合わせで先輩達にその話をしたら、家庭教師のアルバイトをしている友人を紹介してくれる事になった。 すぐに先輩の友人と話をする事が出来て、家庭教師というアルバイトの待遇の良さを切々と訴えられた。 時給は高いし、途中でおやつは出るし、時々夕飯も食べられるし。 先輩の友人が色々と教えてはくれたが、イルカはもっと別の事に対して家庭教師のアルバイトに魅力を感じていた。 大学生の身分でも教師という仕事に関われる喜び。 小さい頃からの夢だった学校の先生に、また一歩近付けたような気がしてわくわくした。 話の通りに時給が高ければ、実益を兼ねた最高のアルバイトになるだろう。 後日、バーの店長に今月でアルバイトを辞める事を伝えた。 店長が済まなそうな顔をしたので、イルカはやんわりとそれを遮り、次のアルバイトの当てがある事を報告した。 もし今月の勤務時間が今まで通りだったら、家庭教師をするなんて事は思い付かなかったので、店長には良いきっかけを作ってもらったと感謝している。 店でのアルバイト最後の日、営業が終わった後にみんなで送別会を開いてくれた。 この日はカカシが休みで、長居する女性客が少なくて、いつもよりお客さんの入れ替わりが早く、みんな疲れているはずなのに。 数ヶ月しか働いていないイルカに、最後の最後まで親切にしてくれる。 「最後なんだから今日ぐらい良いだろ?」 イルカのために、店長がじきじきにシェイカーを持って構えている。 ほんの1週間前まで18歳で、やっと19歳になったとはいえ、まだ未成年のイルカは、お客さんに勧められても一度も酒を口にしなかった。 店に迷惑を掛けたくなかったし、自分自身で酒は弱いだろうと予想していたから。 「何が飲みたい?」 そう聞かれて咄嗟にイルカの頭をよぎったのは、まだ客としてカカシが店に通っている時に頻繁に飲んでいた酒だった。 特に飲みたいと思う酒がなかったのと、偶然それを思い出したのがそれを選んだ理由だ。 「店長のドルフィンが飲みたいです」 名前も色も、春から初夏にかけての今の季節では少し時期外れのカクテル。 カカシが飲んでいたのは4月の半ばだから、更に季節外れと言える。 個人の酒の好みに季節は関係ないのかもしれないが、あれだけ毎回何度も注文されると、何か思い入れがあるのかもしれないと深読みしたくなる。 店長からドルフィンを手渡され、期待と不安で唾を飲み込んでから、グラスに口を付ける。 口当たりが良くてジュースのような飲みやすさに、あっという間にグラスが空になった。 一息吐くと、途端に体中に熱が駆け巡り、頭までぼうっとしてくる。 自分で触れた頬や額が熱い。 「ごちそうさまでした…」 少しよろけながらも使ったグラスを洗い、乾燥用の棚に戻す。 覚束ない足取りで最後の仕事を終え、いつものように、同じ方向へ帰る先輩の後ろにふらふらと付いて行った。 バイクを停めている場所までの数メートルが酷く遠くに感じる。 「あれ?カカシだ」 店の前に停車した車から出て来た男を指差して、先輩が声を上げる。 カカシは手ぶらで店に入り、すぐに封筒のような物を持って出て来た。 先輩がカカシに呼び掛けると、わざとらしく今気が付いたようなふりをして歩み寄ってくる。 「忘れ物取りに来たんですけど…、こんな時間になっちゃって」 おどけたように言葉を発した割に、カカシの目はイルカを一瞥してから急に鋭くなり、じっと先輩を見据えている。 「…酔ってるんですか?」 カカシは先輩とイルカの両方に尋ねたようだが、イルカはとてもじゃないが答えられる状態ではなかった。 それを解っているのか、先輩が代わりに答えてくれる。 「こいつだけ飲んでる」 先輩がイルカを指差して苦笑する。 じっと立っていられない姿を見れば、イルカが酔っ払っている事は誰が見ても明らかだ。 隣りからキーケースを探る時の金属の擦れる音がする。 やがてそれがバイクの鍵穴に刺さり、エンジンの掛かる音にすり替わる。 「…そんなの後ろに乗せてたら危ないでしょ。オレ車だし、拾っていきますよ」 ぼぼぼぼ、というエンジン音にカカシの声が重なる。 先輩の返事は聞こえなかった。 がっしり肩を掴まれる感触と、寄り掛かってもびくともしない支えを得た事に安堵して、イルカの体から力が抜ける。 誘導されるままに歩いて行くと、車の横で助手席のドアが勝手に開いた。 自分でシートに座ろうとしたら、一度体が浮いたように軽くなり、ばたんとドアの閉まる音が聞こえた。 ああタクシーに乗ったんだ、と思った。 ss top sensei index back next |