「とりあえず…まで行きますよ」 運転手がそう言うと、何の衝撃もなくスムーズに車が発進した。 先輩が行き先を伝えてくれたのだろうと都合良く解釈して、イルカはかろうじて保っていた意識を簡単に手放した。 * * * * * どのくらいの時間が経ったのか解らないが、一定の間隔で上下するような振動を感じて、イルカの頭が少しずつ覚醒してきた。 時々頭ががくがくと不安定に揺れるのが恐くて、体を丸めて目の前の何かにしがみつく。 「起きたの?」 間近から聞こえた声にはっとして、反射的に目を見開いた。 イルカの顔の左側に、誰かの顔がある。 腕を突っぱねて顔を引き、周囲を見回すと、自分を取り巻く状況が少しずつ見えてきた。 「はなっ、放して下さいっ」 「ちょ、っと」 マンションの通路のような所で、イルカは男に正面から抱っこされていた。 恥ずかしさの余り、足や腕をばたつかせて必死に抵抗する。 子どもをなだめるように背中をさすられたり、あやすようにぽんぽんと叩かれたりするが、それが余計に恥ずかしくて耐えられない。 イルカが声を上げて抗議し始めると、男はようやく前屈みになってイルカを床に下ろした。 冷たいコンクリートが体に触れ、感覚が鮮明になってくる。 「こんな所で騒がないで下さいよ。今何時だと思ってるんですか」 男の主張はもっともだと思うけれど、イルカはまだ冷静に事実と向き合う事が出来ないでいた。 じわりと目の奥から込み上げてくるものを、下唇を噛んで堪える。 混乱しているのが自分でも解った。 頭の上に大きな手のひらが乗ってきて、さらりと撫で下ろされる。 「さ、立って」 男が膝を折り、尻餅をついているイルカに視線を合わせてくる。 この時になって、ようやくイルカは自分をここに連れて来た人物が誰なのか知った。 イルカの混乱が、いくつもの疑問へと変わっていく。 答えを持っていそうなカカシに尋ねようと、口を開きかけた。 「やっぱりカカシ先輩だ!」 後ろから、控えめな足音と共に控えめな音量でカカシを呼ぶ声が聞こえた。 声の様子で、相手がカカシに会う事を心待ちにしていたという事が伝わってくる。 「勝手に入って来るなよ…」 「カカシ先輩を驚かせようと思って!…あれ?今日は女の子…」 青年の言葉を聞いたカカシの目が急に細まり、冷たい顔をして立ち上がった。 イルカの位置からはもう、カカシの表情は窺えない。 後ろを振り返ると、カカシやイルカと年の近そうな青年がぽかんとした顔で佇んでいた。 カカシとイルカ以外の第三者が現れた事で、本格的に目が覚めてくる。 この状況を理解は出来なくても、徐々に受け止める事は出来てきた。 イルカの頭が、どうしてこうなったのではなく、これからどうするかを考え始める。 まずは、解らない事だらけのこの場所から離れてみよう。 自立した大人の分別として、最低限の挨拶だけは告げて。 「ご迷惑お掛けしました。失礼します」 素早く立ち上がり、カカシの肩越しに見えたエレベーターを目指して、脇目も振らずに走り抜ける。 エレベーターの前で下向きの矢印を押すと、すぐに扉が開いた。 慌てて乗り込み、閉じるボタンと1階のボタンを何度も押し続ける。 長距離を走った訳でもないのに、心臓はばくばくと音を立て、呼吸も荒い。 エレベーターが動き出し、ほっとした事でようやく壁にもたれて息を整えられた。 1階で降りると、高級ホテルのロビーのような造りになっていて、一歩踏み入れた途端に足が竦んだ。 ぎこちない動きでロビーを通り過ぎ、建物の外に出る。 どちらに向かったら帰れるのかわからず、とにかく周辺に目を凝らした。 何となく見た事のある景色のような気がする。 イルカが高校生の時にしていたお弁当配達のアルバイトで、都心を原付バイクで走り回っていたから、都心の地理は少しだけ頭に入っていた。 という事は、カカシの家が都心にあるという事だ。 イルカの予想通り、やはりカカシは裕福な世界の人だった。 もしかしたら友人ぐらいにはなれるかもしれないと思い掛けていたから、少なからず落胆を感じた。 でも今はそんな事はどうでもいい。 問題はどうやって帰るか、だ。 深夜でも看板や建物の照明で明るい道路を宛てもなくとぼとぼと歩く。 今の歩調で進んで行ったら、イルカの目指すターミナル駅に着く頃には始発電車が走り始めるだろう。 未成年の分際で飲酒した罪を償うつもりで、一歩一歩反省だと思って足を踏み締める。 こんなに長い家路は生まれて初めてだ。 カカシの家とは大違いの自宅に戻った時には、辺りはもうすっかり明るくなっていた。 シャワーを浴びて2時間の仮眠を取り、講義を受けるために今日も大学へ向かう。 午前中の講義は睡魔との戦いで、まともに受けられなくて損をしてしまった。 午後はしっかりしなくてはと思って、学食で急ぎぎみに昼食を摂る。 空いた時間に出来るだけ眠っておきたい。 朝、家を出る時に腕時計を忘れてしまったので、時刻を確認するために鞄から携帯電話を出した。 すると、電話の不在着信が14件も残っている事に気が付いた。 イルカは普段からマナーモードで、着信音を鳴らさず、バイブレーションもオフにしている。 滅多に電話もメールも来ないし、自分からもしないから、この設定でも生活に支障はない。 14件の着信番号は全て、昨日までアルバイトをしていたバーのものだった。 最初の着信はイルカが店を出て間もない時間。 急用でもあるのかもしれない。 すぐに掛け直そうとしたら、それを見計らったかのようなタイミングで、また同じ番号から電話が掛かってきた。 「はい、うみのです」 『ああ!やっと繋がった!』 店長の声が、安堵と焦りで上擦っている。 『昨日、突然カカシがバイトを辞めると言い出したんだけど…』 唐突な話題と内容に驚いて、相槌を打つ事も忘れた。 でも、カカシがアルバイトを辞める事を、わざわざイルカに連絡する必要はないだろう。 そう思っていると、店長が落ち着きを取り戻した声で話を続けた。 『イルカが帰った後カカシが店に来て、その時ちらっとイルカの送別会の話をしたら、あいつ突然言い出したんだよ』 店長は、カカシが辞める事にイルカが関係していると言いたいのだろうか。 『こっちの身勝手な都合で申し訳ないんだけど、カカシが店に戻って来るようにイルカから説得してくれないか』 店長の話を聞いて、イルカは段々と悲しい気持ちになってきた。 口には出さなかったけど、イルカが店を辞めると言った時、本当は店長に引き止めて欲しかった。 必死に引き止めてもらえるカカシが羨ましい。 それに加えて、イルカはまだ、アルバイトの職種や収入が変わる事への不安を拭いきれていない。 環境が変わる事になった発端や原因が何なのか、解った上で、店長はイルカにカカシの件を伝えているのだろうか。 胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさや虚しさで、油断すると思考がネガティブな方へ流されてしまう。 つらい時でも苦しい時でも、無理にだって明るく前向きに考えるように気を張ってきた心が挫けそうだ。 イルカを店から追い遣ったカカシがあっさりと店を辞めようとして、イルカが辞める事を快く了承した店長がイルカに泣きついてきて。 両親が亡くなってから、親戚中をたらい回しにされて、結局は血の繋がりのない老人に引き取られる事になって。 自分でも知らない内に陥っていた人間不信も、夢を持ってからは大分改善してきたと思えた矢先の出来事がこれだ。 誰にも迷惑を掛けないで生きられるように、一日でも早く一人前になろうとして、勉強もアルバイトも一生懸命に励んでいるのに。 イルカの元には、志を試すような様々な困難が不意を突いて舞い込んでくる。 人に裏切られるのは、もうたくさんだ。 イルカの中の暗い感情が、次から次へと止め処なく溢れ出す。 のどに焼けるような痛みを感じながらも、高校生だったイルカを深夜営業のバーで雇ってくれた店長には確かに感謝しているから。 「…解りました。でも、過度な期待はしないで下さい」 店長に何度も繰り返しよろしくと頼まれて電話を切った。 イルカは、震えそうな吐息をゆっくりと吐き出した。 ss top sensei index back next |