午後の講義は午前よりも酷かった。
頭が朦朧として、でもそんな頭で色々な事を考えなくてはならないし、講義も受けなくてはいけないし、メモも取らなくてはいけないし。
勉強以外の面倒事を切り離せたらどんなに気楽だろうと思って、何度も投げ出したくなった。
西日に照らされる教室から教授が退室するのを見届けて、糸の切れた操り人形のように机に突っ伏す。
精神的にも肉体的にも疲弊しているというのに、イルカにはまだやらなくてはならない事がある。
他の学生達は我先にと教室を後にして、あっという間にイルカ一人が閑散とした室内に取り残された。
やがて廊下のざわつきも収まり、イルカも部屋を出ようと、最後の溜め息と決めて息を吐き出す。
立ち上がって荷物を纏めていると、静かな教室に勢い良くドアを開けるバタンという音が大音量で響き渡った。
「良かった。まだいた」
反射的にドアに目を向けると、これから探そうとしていた人物が自分からやって来ていた。
これで宛てもなく探す手間が省けたので、一つの心配事は解消された。
しかし、一番重要なカカシを説得するという問題の解決策は、まだ糸口すら見えていない。
カカシが机や椅子を器用に避けてイルカの方へ歩み寄って来る。
「すいませんがアンタにちょっと話があるんだけど」
そう言ったカカシの呼吸は少し乱れていて、距離が近付くに連れてカカシが薄っすらと汗をかいている事にも気付いた。
ここに急ぎの用があるのか、次の目的地があるためにここに寄っている時間を短縮しようとして急いで来たのか。
イルカはどちらでも構わないが、出来るだけ他人に振り回されないために、特に今回の件は相手の都合なんて考えずに言わせてもらう事にした。
「すいません、その前に俺もはたけさんに用があったんです」
カカシに関わると不可抗力で厄介な問題に巻き込まれるから、早く接点を断ち切ってしまいたい。
向こうもイルカに話があるようだけど、その話はなかった事にして、店の事を話したら一刻も早く立ち去りたいぐらいだ。
カカシはなぜか嬉しそうな顔をして、イルカに話の続きを促した。
この状況でそんな表情をするカカシの思考が理解出来ない。
不審に思う気持ちを隠して、極力丁寧な口調を心掛ける。
「急に店を辞めないで下さい」
「ああ、その事ですか」
何の話だと思っていたのかは解らないが、店の事だと知るとカカシは途端に態度を一変させた。
うんざりしているような、がっかりしているような、とにかく声にも姿勢にもその様子が現れている。
「店長が困ってます。それにお客さんだって、はたけさんに会うのを楽しみにしてるのに」
「悪いけど、あの店で働く理由がなくなってしまったんですよ」
カカシの言葉を聞いて、イルカには一つだけ思い当たる節があった。
以前にも思った事だ。
店長もそれに気付き、電話口で間接的にイルカに対して訴えていた。
視線を足元へ落とす。
「…俺が辞めたから、ですか」
カカシは何も答えない。
けれど、その沈黙が何よりの答えだった。
今回の件、本来はイルカが苛立っていた事の方が筋違いだったのだ。
原因は、他でもないイルカにあったのだから。
覚えはないけど、関係ない人達を巻き込んでまでイルカをおとしめたいと思われるほど、カカシに憎まれるような事をしていたのだろう。
恐る恐る顔を上げ、カカシの表情を伺う。
嘲笑いを隠すためか、本心を口走らないためか、カカシは手で口元を覆って、何か考え事をしている様子だった。
本当は悪い人ではなさそうなカカシに、あからさまに嫌われるような事をした自分が恨めしい。
「…俺の事、そんなに嫌いですか」
心の声が無意識の内に呟きに変わっていた。
もしかしたら、ずっと聞きたいと思っていたのかもしれない。
視線の定まらなかったカカシの瞳がぱちりと見開かれ、わざとらしいぐらい驚いた顔をされた。
カカシは口元から手を外し、視線を泳がせながら何かを言いあぐねて、口を開いたり閉じたりを繰り返している。
「嫌いじゃない。…けど、オレだって時々はイヤになる事だってありますよ」
カカシの言葉が妙に胸に突き刺さった。
本音を包み隠さず晒される事が、痛みを伴なう事だなんて知らなかった。
「ま、オレは店に戻る気はないけど、あなたが気にしてるなら穴埋めはしときます」
直前までのやり取りをなかった事のようにして、カカシが話を本題へ戻した。
イルカも本心を零してしまった気まずさから、あえてその部分には触れずにカカシの言葉をありのままに受け止めた。
穴埋めをしてくれるのなら、店的にも問題はないはずだ。
それがどういう方法で行われるのかまではイルカには関係ない。
「…よろしくお願いします」
顔は見ずに、会釈程度に軽く頭を下げた。
これでイルカも面倒な役回りから解放される。
早く家に帰って休息したい。
教室に残る理由もなくなったので、荷物を手に取り、ドアへと歩き出す。
「ちょっと…!オレも話が…」
焦りを含んだカカシの声に振り向こうとすると、手に持っていた携帯電話からバイブレーションの振動が伝わってきた。
昼休みに店長と電話で話した後、バイブレーション機能をオフにするのを忘れていた。
ディスプレイには、サークルの責任者である神月イズモという名前とその電話番号が表示されている。
「はい、うみのです」
「おっ…?…珍しいな、お前が電話に出るなんて」
確かに、イズモからの電話を取ったのは初めてかもしれない。
今までの電話は、留守番電話に残してくれたメッセージを聞いて掛け直すか、メールで返事を送るか、どちらかだった。
「あのな、これからイルカの所に…サークルの新人なんだけど…ちょっと変な奴が行くから、その…、よろしく頼むな」
イズモの不可解な言い回しに首を捻る。
規模の小さいサークルに新人が入る事は、とても重要な事ではある。
所属する人数によって大学から支給される活動費が変わるからだ。
でもそれにしたって随分その新人に気を遣っているような歯切れの悪い言い回しに聞こえた。
「そいつさ、色白で見た目は軟弱そうだけど、女にはもてそうだから邪険にはするなよ」
続いて告げられたイズモの言葉を聞いて、イルカも確かに納得した。
サークルの人数を増やせそうな人材だから大切にしてくれ、という事だ。
しかも、男所帯のサークルに女子を入れてくれそうな、イズモが心待ちにしていた人物なのだろう。
奥手なイルカと違って、女子との繋がりを求めているサークル員は多い。
先輩か同学年かも解らないが、その新人は何となくイルカの苦手なタイプの部類に入るような気がする。
「歓迎会まではいかないけど即席で顔合わせ会をやるから、これからそいつを『茶茶屋』に連れて来てくれよ。向こうはイルカの事知ってるみたいだったから」
茶茶屋は、いつも温泉サークルの打ち合わせで使っている喫茶店の名前だ。
今日は眠気はあるけどアルバイトはないし、他の予定も入っていないから残念な事にイルカも参加出来てしまう。
溜め息交じりの相槌を打ち、渋々と悟られないように了承した。
電話を切って、改めて深い溜め息を吐く。
「あのー」
イルカの背後から近距離で声を掛けられ、驚いて肩がびくりと大きく震える。
そういえば、バーの事でカカシと話を終えて教室を出る途中だった。
カカシの存在を思い出し、イルカの中で、パズルのピースが気持ち悪いくらいきれいに嵌っていくような感覚に襲われた。
胸の奥の方で嫌な音がして、冷や汗が出て来る。
呼び掛けに振り向こうとしないイルカに痺れを切らしたのか、カカシがイルカの正面へ回り込んで来た。
目を背けたい何かが、すぐそこまで迫っている。
「電話の会話、筒抜けだったんですが」
白くて細長い指がB6サイズの小さな用紙を挟んで、イルカの目の前に突き付けられた。
その用紙には『同好会入会届け』と書かれており、同好会の名称と、学部、学科、学年、氏名を記入する欄が設けられている。
イルカも先月同じものを書いて、イズモと総務部に提出したばかりだ。
責任者に提出する側の半券は既に切り取られ、残っているのは総務部に提出する側の半券だった。
「オレを茶茶屋まで案内して下さい」
何度見直しても、同好会の名称の欄には『温泉同好会』と書かれている。
睡眠不足のせいもあるかもしれないが、頭痛と胃痛とめまいのような症状が同時に現れた。
俯いて、ぎゅうっと目を瞑り、カカシには見えない位置で痛みに耐える。
今度は何の目的で温泉同好会に入ってきたのだろう。
バーの時のように、イルカの居場所を奪って楽しもうとしているのだろうか。
頭ではカカシはそんなに悪い人じゃないと訴えていても、気持ちの方が拒絶反応を示す。
顔を上げると、カカシが眩しいほどの笑顔でイルカを見下ろしていた。
イルカがどんなに目を凝らしても、その仮面の内側に隠されたカカシの本心までは見通す事が出来なかった。






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2007.06.30