茶茶屋へ行く前にカカシがどうしても寄りたい所があるというので、半ば自棄になってイルカも同行した。
そして、これ見よがしにカカシはイルカの目の前で総務部へ入会届けを提出したのだ。
「これで晴れて同じサークルですね」
小さな用紙を事務員が受け取って内容を確認している隙に、いちいちイルカに嫌味を言う。
イルカは愛想笑いも出来ず、悔し紛れに下唇を噛んだ。
「えっと、はたけさん?あなた確かテニス部の副部長だったわよね。部活の責任者は他の部活や同好会へ二重登録が出来ない事になってるんだけど、知らなかった?」
上機嫌でイルカに向き合っていたカカシが、さっと表情を変えて驚きに目を見開いた。
事務員の言葉は、イルカにしてみたら朗報以外の何物でもない。
「じゃあ…」
カカシが何かを言い掛けた時、後ろからカカシを呼ぶ声が聞こえてきた。
正直言ってイルカは『またか』と思った。
二人で教室を出てから、今のように、カカシには頻繁に声が掛かる。
男女問わず、歩いていれば話し掛けてくる人が多いし、携帯電話もひっきりなしに鳴っている。
携帯電話の方は、着信があっても呼び出し音を切るために手に取るだけで、全く電話に出ようとしない。
カカシの交友関係の広さは解ったが、イルカには華やか過ぎて、かえってわずらわしさを感じてならなかった。
「カカシ!お前がいないと女子が文句ばっかり言ってうるさいんだ。そろそろ顔出してくれよ」
どこかで見た事があるような人だと思ったら、会話の内容を聞いて思い出した。
カカシにテニス部の入部説明へ引っ張って行かれた時に、受付にいた部員だ。
「悪いけどオレ、部活辞めないとダメみたい」
「えっ、なっ、急に何言ってんだよっ」
「入会届け、どうしますか?」
窓口に足止めされていた事務員が、苛ついた口調でカカシに尋ねた。
カカシは一度イルカを見てから事務員に向き直り、渡したばかりの入会届けを素早く奪い返した。
視線の意味は不明だが、カカシが『またにします』と言ったのを合図に事務員は席に戻った。
「今ちょっと時間あるか?少し話そうぜ」
「これから用があるからムリ」
そう言うとカカシは、イルカの手を掴み、その場から逃げるように早足で歩き始めた。
一度振り返ったら、テニス部員は呆然と立ち尽くしてカカシの後ろ姿を見送っていた。
建物を出ると、棟と棟のあいだの人目に付かない路地に連れ込まれる。
幅が狭くて窮屈な路地では、どうしてもカカシとの距離が短くなってしまう。
日常生活では滅多に近付く事のない距離に他人が入っているからか、急に顔が熱を持った。
「今の事、まだイズモに内緒にしてて下さいね。…もし言ったら、あなたにイタズラしちゃいますよ」
意味ありげに耳元で囁かれた言葉に息を飲んだ。
適度に雑音が遮断されているために、カカシの声がより鮮明に聞こえる。
ジーパンの上から、偶然イルカの太腿に触れたカカシの手がするりと撫でるように動き、背筋にぞくぞくと悪寒が走る。
腰が抜けそうになり、外壁に背中を預けて何とか持ちこたえる。
心拍数が尋常じゃないぐらい上がっていて、カカシにも心音が聞こえてしまいそう。
カカシが懸念しているように、確かにイズモは人一倍ルールや規則に厳しい一面を持っている。
しかも2年生以上の学生は5月末までしか部活やサークルを変更する事が出来ないから、この件で結論を出すのにカカシに残されている時間は、あと数日。
どちらか一方でも揉め事が起きれば、カカシの希望通りになるのは難しいから、そうならないためにこんな所でイルカに釘を刺したのだ。
改めて考えてみると、カカシの根回しの巧みさに驚かずにはいられない。
カカシの行動には一つ一つ、理にかなった理由があったのだ。
イルカに対する嫌がらせとも思える行為にも、カカシなりの理由があるのだろうか。
その場から動けないイルカの手を取り、カカシに誘導されて路地を出る。
人目に触れる通路に出ると、ゆっくりとカカシの手が離れた。
手首にはまだ、カカシに握られていた余韻が残っている。
横目で見たカカシの顔は、いつも通り飄々としているように見えた。
カカシに気付かれる前にさっと正面を向く。
自ら話を振られるような状況を作って面倒事を増やすような事はしたくない。
門を出て広い通りに出てからは、カカシが横にいるだけで、いつもは気にならない信号待ちにも気を遣う。
決して親しげに話したりはせずに、カカシとは赤の他人に見えるように装った。
大した距離でもないのに、茶茶屋までの道のりが信じられないくらい長く感じる。
道路にせり出した茶茶屋の看板を見て、ほっとイルカの肩から力が抜けた。
重くて古めかしいドアを押し開けると、鈴が擦れて甲高い音が鳴り、店内に来客を知らせる。
マスターの『いらっしゃい』の声を合図に、奥の席を占領していたサークルのメンバーの中からイズモが手を上げた。
「こっちこっち!」
イズモの隣りには、相棒のはがねコテツが座っていた。
コテツは温泉サークルに入っている訳ではないのに、イズモとは頻繁に行動を共にしている。
実を言うと、イズモ経由で家庭教師のアルバイトを紹介してくれたのもコテツだった。
アルバイトの話を聞くために、イルカは奥の席に座るコテツの隣りに入れてもらった。
カカシもイルカに付いて来ようとしたが、新人の指定席と言わんばかりに空いていた、メンバー全員の顔が見える手前の席に引き戻された。
主役のカカシが来た事で、さっそく責任者のイズモから簡単な自己紹介が始まる。
イルカは自分の紹介を終えると、他のメンバーには申し訳ないとは思いながらも、隣りのコテツと小声でアルバイトの話をし始めた。
少人数のサークルなので、あっという間に自己紹介も終わり、間髪入れずに今度はカカシへの質問攻めが始まった。
その間もコテツとアルバイトの話を続けていたら、今日これから、コテツが家庭教師をしているお宅に一緒にお邪魔しても良いという事になった。
「悪い!俺これからバイトだから、もう行くわ。あとは適当に解散していいから」
イズモがそう言って席を立ったので、コテツとイルカもこのタイミングで店を出る事にした。
一瞬だけイズモの声に耳を傾けた他のメンバー達も、すぐにカカシへ向き直って会話に戻った。
温泉サークルのメンバーは、良い意味でも悪い意味でも、カカシのようなタイプには縁が薄いから、ここぞとばかりに色々と聞きたい事があるのだろう。
駅へ向かうイズモと別れ、コテツと二人で住宅街の方へ足を向ける。
コテツと二人きりになり、イルカの頭に最初に浮かんだのは、コテツの連絡先を教えてもらう事。
アルバイトの事で不安になったり、聞きたい事が出来たりした時に連絡先を知っているというのはとても心強い。
先輩のコテツに対してイルカからは言い出しにくかったが、今なら茶茶屋や大学の構内にいる時よりは尋ねやすいと思って、勇気を出して聞いてみる事にした。
「コテツさん、あの…。携帯電話の番号とアドレス教えてもらえませんか…?」
少し緊張しているのが伝わったのか、イルカの言葉を聞いたコテツが咽喉の奥で笑いを堪えているのが解った。
「何だよ、イルカ。愛の告白じゃないんだから、そんなにビクビクするなよ」
冷やかすような事を言ったわりに、コテツはポケットから携帯電話を出して、あっさりと連絡先を教えてくれた。
そこから少し歩き、コテツが目指していた十数階建てのマンションに到着した。
先程とは違った緊張感で胸が高鳴っている。
目と目で頷いてからエレベーターで上階へ向かい、生徒の家の前でチャイムを鳴らした。
「今日は親御さんがまだ帰ってきてない日なんだ」
コテツがそう言うと、部屋の内側から不慣れな手付きで鍵やチェーンを外しているような音が聞こえてきた。
ドアが開き、中から小学校2、3年生ぐらいの男の子が顔を出す。
コテツとイルカの二人を見上げて首をかしげているので、警戒心を持たれないように笑顔を見せる。
「この人はイルカ先生っていうんだ。仲良くしてやってくれな」
「わかった!」
元気良く返事をして、男の子が部屋の中へ走って行った。
コテツが後を追って入室したので、イルカも部屋に入る。
それから2時間、コテツの家庭教師振りを見学させてもらった。
親御さんの帰宅は授業が終わる前後になるという事だったが、結局、帰って来る前に2時間が経過した。
生徒の家を出てエレベーターを待っていると、丁度イルカ達のいる階で止まったエレベーターに、生徒の親御さんが乗っていた。
コテツに紹介してもらい、丁寧に挨拶とお礼をして、入れ違いでエレベーターに乗り込む。
とても充実した2時間で、楽しかったし、すごく勉強になった。
何だか夢の中にでもいるような、足元がふわふわと浮ついているような感じがする。
マンションを出ると、辺りはすっかり日が暮れて真っ暗になっていた。
そのせいか、僅かな段差でつまずき、転びそうになった所をコテツに支えてもらう。
「すいませ…」
詫びを言い終える前に、イルカの間近で『ドス』という鈍い音がした。
何が起こったのか解らずに振り向くと、コテツが前のめりになって苦しそうに腹を抱えていた。
様子を見るためにコテツの肩に手を掛ける。
すると突然、後ろから強烈な力で手を引っ張られた。
ぐいぐいと引かれ、コテツを助けようとしているのか、コテツに助けを求めているのか、自分でも解らないまま、必死にコテツへ手を伸ばす。
「なに?あの男、アンタの恋人なワケ?」
イルカの手を引く張本人の声には、明白な怒声が含まれている。
顔は見えなくても、相手が誰なのか判別するのは、月明かりに照らされた後ろ姿だけで充分だった。
カカシに手を引かれるのはこれで何度目になるのだろう。
一度掴まれたら、イルカの意思では絶対に振り解けない事は知っている。
微かに灯った希望の光りが、圧倒的な力によって呆気なく摘み取られたような気がした。






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2007.08.05