カカシに手を引かれている間は何も考えられなかった。
抜け殻のようになってカカシに身を任せる。
カカシが足を止めればイルカも足を止めた。
横断歩道のない交差点で立ち止まる。
カカシは道路に向かって片手を上げ、何かに合図を送った。
たちまち黄色い車がやって来て、自動でドアが開く。
カカシが乗り込み、手を繋がれたままのイルカも不自然な体勢で車内に引き込まれた。
イルカの左側でドアが自動で閉まると、ようやくカカシの手が離れた。
自分の身を守るように、すぐに脇を締めて両腕を身体に密着させ、手を膝の上で固く握る。
運転手に行き先を尋ねられ、カカシが簡潔に地名と番地を告げた。
カカシからは絶えず不機嫌な空気が発せられ、狭い空間に張り詰めた沈黙が充満する。
イルカはただ俯いて、自分の膝とその上に置かれた両こぶしを見つめた。
やるせなさから下唇を噛むと、眉間にも深い皺が寄る。
咽喉の奥から迫り上がるものが唇を震わせ、耐え切れずにぎゅうっと目を閉じた。
情けない事に、じわじわと目の端に涙の粒が浮いてくる。
どんなに瞼に力を込めても、どんなに下唇を噛み締めても、何の抑止力にもならなかった。
涙が頬を伝う事なく、雫となってイルカの手の甲へと落ち始める。
時折ジーパンに雫が落ちると、ぱた、ぱた、と僅かな音が立つ。
音に気付いたのか、隣りでカカシが身じろぐ気配がして、小さくて短い吐息が聞こえた。
「…う、運転手さん、悪いけど急いでくれる?」
カカシの声は明らかに動揺していた。
確かに、同乗者の男なんかに泣かれたら、この上なく体裁が悪いだろう。
落ち着きを失っているのか、隣りからしきりに服とシートが擦れる音がする。
カカシの不興へ火に油を注いでしまい、怖くて顔を上げられない。
嗚咽を必死に抑え込んでいると、その反動で時折肩が大きくひくつく。
何度もそんな事を繰り返していたら、カカシがイルカの肩に触れてきた。
力尽くで押さえ付けられるのかと思って、一際大きくびくついてしまった。
その反応に、カカシの手が一瞬で離れる。
何もしない事が最善だと判断したのか、それ以降カカシは身動きせず、口も出さず、ひたすら傍観に徹していた。
カカシの干渉がなくなると、心配事で頭が一杯になる。
これからどこに連れて行かれるのか。
そこで何が起こるのか。
アルバイトはどうしよう。
見つからなかったら大学にも通えないし、アパートにも住めなくなる。
考えても答えが出ないものばかりで、その事に一層不安が煽られて涙が止まらない。
「その先の信号を越えたら、最初の街路樹の所で停めて」
静かだった車内にカカシの声が響く。
間もなくして車が停まると、それからのカカシの行動は早かった。
面倒だったのか、お札を渡してつり銭を断り、自動で開いたイルカ側のドアからは出ずに、手動でカカシ側のドアを開いて車から降りた。
料金が支払われたのだから、イルカもここで降りなくてはならない。
少し躊躇っていると、開いていたイルカ側のドアからカカシが顔を出した。
膝の下に左腕、シートと背中のあいだに右腕と、二箇所にカカシの腕が伸び、掬い取られるように車から降ろされた。
地面に足を付けて立ち上がるまで、丁寧にカカシに介助される。
後ろでドアが閉まり、車が何事もなかったかのように走り去って行った。
右腕を掴まれ、カカシの首の後ろを通って肩へと誘導される。
カカシの左腕は既に、イルカの脇の下を通って胸の前辺りで待機していた。
まるで、けが人とその付き添い人のような格好だ。
ぴたりと密着してたどたどしく歩き、目の前のマンションに入る。
豪華なロビーを進み、エレベーターの前で立ち止まった。
やけに見覚えのある景色だったので、記憶を呼び起こそうとして、もう一度周りを見渡す。
すると、瞬く間に記憶と現実が一本の線で繋がった。
昨日、電車の走っていない時間に、ここから駅まで歩いたじゃないか。
体から力が抜ける。
振り出しに戻ってしまった。
車から降りた時に一端引っ込んでいた涙が、再び目元に集まってくる。
ぐずぐずと鼻をすすり、空いている左手で目を擦った。
カカシに背中を押されて顔を上げると、エレベーターの扉が開いていた。
誰かが降りた気配はなかったので、誰ともすれ違わずに済んだのが、まだ救いだった。
カカシが17階のボタンを押し、すぐにエレベーターの扉が閉まる。
人目がなくなって体面を保つ必要がなくなったからか、カカシがイルカから離れて壁に寄り掛かった。
カカシは腕組みをして物思いに耽っている。
お互いに無言のまま、あっという間に17階に到着した。
しかし、カカシは自分の家があるはずの階なのに中々降りようとしない。
扉が閉まりかけ、ようやくカカシが慌てて『開』ボタンを押す。
「…そんなに…イヤ、ですか…」
カカシの発言が信じられなかった。
嫌に決まっているじゃないか。
イルカが黙っていると、カカシから小さな溜め息が聞こえた。
「わかりました…。でも、お願いだからもう少しだけ付き合って下さい」
今まででは考えられない弱気なカカシの言葉に、イルカは自分の耳を疑った。
軽い力で手首を掴まれてエレベーターを降りる。
その仕草になぜか優しさのようなものを感じて、昨夜ここに来た時の事を思い出した。
いい年をして、カカシに抱っこされた状態でこの場所にいたのだ。
恥ずかしい気持ちがぶり返して、空いている方の手で額を押さえた。
今、間違いなく頬が赤くなっている。
「どうぞ」
先を促されるまでもなく、カカシに手を引かれて部屋に入る。
イルカの後ろでドアが閉まり、自動で鍵も閉まった。
カカシが靴を脱いだので、イルカも慌てて靴を脱ぐ。
手を繋がれているから、脱いだ靴を揃えられないままで奥へと進んだ。
「…お邪魔…します…」
不思議と、タクシーに乗っている時よりも不安や不信感が薄れている。
エレベーターを降りる時に言われたカカシの一言と、その時の気遣うような些細な仕草一つで、こんなにもカカシに対する意識が変わっている。
玄関から真っ直ぐに伸びた廊下を抜けると、一人暮らしには勿体ない広さのリビングが待っていた。
リビングの広さにも驚いたが、イルカはそれ以上に、部屋と部屋を仕切る壁が透明な一枚ガラスで出来ている事に驚いた。
隣の部屋は寝室になっているようで、大きなベットが置かれているのが丸見えだ。
全てを曝け出すような空間に、関係ないのにイルカの方が恥ずかしくなってくる。
呆然と立ち尽くしていたら、いつの間にイルカの手を離したのか、カカシがマグカップを2つ持って奥から出て来た。
「あ、スイマセン。テキトーに座って下さい」
コーヒーでも入っているような見た目とは違って、緑茶の爽やかな香りがする。
一つしかない横長のソファーに2人で座り、マグカップを手に取った。
香りと共に緑茶を吸い込むと、自然と心と体の力が抜けて緊張感が緩んでいく。
一人分の距離を開けた先に座るカカシからも一息吐いたのが聞こえた。
「…さっきの男…、あなたのカレシですか」
マグカップを両手で持ったカカシが、どこか遠くを見つめながら冷静な声で尋ねてきた。
そういえば、コテツと離れる時にも『恋人』がどうのと言っていた。
恋人とか彼氏とか、カカシの言葉にはイルカには不可解なものが多い。
「彼氏ってどういう事ですか?俺も男なんですけど…」
「あの男を恋人にしてるのか、って事です。あいつと…キスしたり抱き合ったり…」
「なっ…」
俯くというよりも、項垂れているカカシから出た発言に言葉を失う。
「…マンションで2時間も何してたの…?」
カカシはまだ顔を上げない。
何かに耐えるように背中を丸めている。
「授業に…参加させてもらったんです」
「…授業って?」
「小学生の算数と理科です」
カカシがゆっくりと顔を上げてイルカを見た。
眉の両端がハの字に下がり、心細さがありありと顔に表れている。
イルカにはその表情が、全ての偽りを削ぎ落とした本当のカカシの心情を映し出しているように見えた。






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2007.10.07