情けない顔をしたカカシが、長い長い溜め息を吐いた。
猫背を更に丸めて、額が膝に付きそうなほど前屈みになっている。
カカシの様子から察すると、コテツと別れた時に最高潮だった激昂は終息したようだ。
何となく張り詰めていたものが解け、イルカの肩からも力が抜ける。
それと同時に急に体が重たく感じて、ソファーの背もたれに寄り掛かった。
昨日からの疲れが一気に押し寄せたのだろう。
天井を仰ぎ、溜め息と共に力ない言葉を吐き出した。
「…もう…帰らせてもらえませんか…」
「えっ」
カカシがあまりにも驚いた声を出したので、ついイルカもカカシを見遣った。
見開いた目がイルカを凝視している。
そんなカカシの反応にイルカの方こそ驚いた。
不意にカカシの視線が不自然に外され、イルカの後ろに注がれる。
何があるのだろうと思って、イルカもカカシの視線の先を確かめるために振り返った。
「…あ…、あ、めが、雨が降ってるみたいだから、止むまで…、待ったらどうですか…」
振り返った先には窓があり、そこからは雨が本降りになっているのが見えた。
今日は折りたたみ傘すら持って来ていない。
カカシの方から深呼吸のような長い吐息が聞こえ、何気なく正面に向き直る。
「…もっとあなたと話がしたいんです」
躊躇いながらも、はっきりと聞き取れたカカシの言葉に新たな疑問が沸く。
イルカには、知り合って間もない人から聞きたい話も、ましてや聞かせたい話もない。
もしかすると、カカシに有益な話を持っていると思われるような事を、無意識のうちにでもしていたのだろうか。
それならば、きちんと訂正しなければならない。
「俺には話す事なんてないんです」
イルカの言葉にカカシが怯んだのが解った。
僅かに体を引いて苦い顔をしている。
下唇を噛んで目を伏せ、しかしすぐにイルカに視線が戻される。
「…あなたと…もう少し…その、…仲良く…なりたいんです…」
カカシは眉間に皺を寄せながらも、真剣な目をして言葉を発した。
『仲良くなりたい』なんて、今時小学生でも使わないような言葉だ。
これまでのカカシの仕打ちを思い返すと深読みせずにはいられない。
でも、もう立派な大学生で、しかもイルカより年上の相手から出た幼稚な言葉に、単純に笑いが込み上げた。
するとカカシがぽかんと口を開き、寝惚けているような定まらない目でイルカをぼうっと見つめて来た。
そして、自分の服の胸の辺りを掴んだカカシが、少し苦しそうにそこを押さえる。
「…初めて見た…。笑った顔…」
言葉を発した事で我に返ったのか、カカシの目に正気が戻る。
こうしてカカシと向き合ってみると、イルカが思っているほどカカシに嫌われている訳ではないのかもしれないと思えてくる。
そのまま物思いに耽って行きそうになった所に、突然、玄関から機械的な呼び出し音が鳴り響いた。
自分の家のインターホンが鳴っただけなのに、カカシはあからさまに肩をびくつかせて後ろを振り返った。
壁に埋め込まれたモニターに人の姿が映っている。
カカシは渋々といった様子でモニターの前まで歩いて行った。
「…なんだよ」
『先輩っ!お願いですっ、家に入れて下さいっ』
やけに必死な声が聞こえた。
カカシはその声には何も答えず、モニターを消して何かのボタンを押し、ソファーに戻って来た。
しばらくすると、今度は玄関からインターホンが聞こえた。
カカシが溜め息を吐いて立ち上がる。
鍵を開ける音とドアを開ける音に続いて、にぎやかな声がイルカの耳にまで届いた。
「本っ当に良かったですっ!カカシ先輩が居てくれてっ!」
「おう、カカシ。久しぶりだな」
二人目の声が聞こえた途端に、カカシは無理矢理ドアを閉めたようだった。
そのせいか今度は、くぐもった声と共にドアを叩く鈍い音が何度も続き、カカシが慌ててドアを開け直した。
「ドアを壊されては困りますから…」
「最初から大人しくそうしていれば良かったんだよ」
カカシは来客の一人を廊下の途中にある扉へと通し、もう一人をリビングへと連れて来た。
リビングに来た人は、なぜかイルカにも見覚えのある人だった。
「あ、昨日の…」
向こうが呟いた一言で思い出した。
昨晩イルカがマンションの通路に尻餅をついている時に、カカシに呼び掛けていた青年だ。
カカシに抱っこされている姿を見られたかもしれないと思って顔から血の気が引く。
いや、尻餅をついている時だったから、何とか見られていないはずだ。
抱っこされている姿も尻餅をついている姿も、どちらも情けない姿に変わりはないが、まだ尻餅の方がましだった。
心底安堵の溜め息を吐く。
「こいつです、あの店で働くの。快く了解してくれましたよ」
青年は素早くカカシの方を向き、目を見開いて驚きの表情を見せた。
何か言いた気な顔をしている彼に、カカシは一瞥すら与えない。
その代わりに、軽く背中を叩いてイルカへの挨拶を促した。
「…ヤマトです…」
ヤマトが、なぜか助けを求めるような目でイルカを見てくる。
嫌がっているように見えなくもないが、本人が否定しないという事はカカシの言葉を信じても良いのだろうか。
昨日のヤマトの陽気さと、さっき見た元気さがあれば、カカシとは異なった面ではあるが、店でもきちんと活躍してくれそうな気がする。
イルカを見つめていたヤマトの肩ががっくりしたように落ち、ごしごしと乱暴に目元を拭った。
最終確認のつもりで、よろしくお願いしますと声を掛ける。
ヤマトは俯きながらも、イルカの言葉に何度も大きく頷いた。
これでカカシの引継ぎ相手が決まった。
なんだかんだ言っても、早く店長に報告して安心させてあげたい。
「店長に伝えたいんで、電話させてもらっても良いですか」
「どうぞ。ヤマトの気が変わらないうちに連絡した方が良いですから」
鞄から携帯電話を取り出し、部屋の隅、窓際へと移動する。
店の番号を呼び出そうと画面を見ると、今日教えてもらったばかりのコテツの電話番号から3件もの着信が残っていた。
イルカの頭が焦りと不安で一杯になり、腹を抱えて前屈みになるコテツの姿と、『ドス』という鈍い音が鮮明に蘇る。
発信ボタンを押す指が震え、頼りない片手にもう一方の手を添え、ぎこちない動きで耳元へ寄せる。
呼び出し音が2回、3回と続き、回数が増えるごとに目に涙が溜まってきた。
「…もしもし!?コテツさん!?」
唐突に回線が繋がり、その時点で既にイルカの声は涙声になっていた。
視界が曇っているのが、涙のせいなのか、雨が窓ガラスに打ち付けているせいなのか、それすら判別できない。
『イルカ!大丈夫か?今どこにいる?』
自身の事よりもイルカを気遣う言葉に胸を打たれ、とうとう涙が溢れ出した。
しゃくりあげながらも、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
「俺はっ…、だい…、大丈夫っ、です…。こ…コテツさんは…?」
『痛かったけど別に問題ない。…これから迎えに行こうか?』
コテツの優しい言葉がイルカの涙腺を更に刺激して、電話口に嗚咽しか乗せられない。
せめてお礼の言葉だけでも伝えようと思い、ゆっくりと息を深く吸い込んだ。
「迎えはいらない。オレが責任持って送るから」
イルカが言葉を発する前にカカシに携帯電話を奪われ、思いやりの欠片もない言い方でそのまま電話を切ってしまった。
カカシの奇行を目の前にして呆然と立ち尽くす。
だらりと下がったイルカの手を拾い、カカシがそこに携帯電話を握らせた。
ここに連れて来られた時とは違って、今はカカシの手がとても冷たく感じる。
その手がイルカの目元や頬に触れ、涙を拭うような動きを見せた。
火照った顔を滑る指は気持ちの良いものだったが、どうしても素直にそれを受け止める事が出来なかった。
少しは仲良くなれるかもしれないと思い始めていたイルカに、再び警戒心が湧き上がった。






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2007.11.24