「もしかしてカカシ先輩…」
カカシとイルカのやり取りを見ていたヤマトが、複雑な顔をして何かを言い掛けた。
それを聞き、無言でヤマトへ視線を投げたカカシは真剣な目をしている。
ヤマトの発言の続きに心当たりがあるのだろうか。
肯定も否定もしないカカシに対して、ヤマトはそれ以上何も言おうとはしない。
一言も言葉が交わされていないのに、二人の会話が成立しているように見える所が不思議だった。
結局ヤマトには何も答えないままで、カカシがイルカに向き直る。
「店にはオレから連絡を入れておきます」
強めの口調が恐ろしかった。
ここまでカカシを不機嫌にする要素がどこにあったのか解らない。
カカシの顔を見ていられなくて俯くと、慌てた様子で近寄って来る足音がした。
「先輩、ちょっと」
声を掛けたヤマトが、カカシの袖を掴んでキッチンの方へ引っ張って行った。
カカシの存在が遠のいて、強張っていた肩から力を抜き、ほっと息を吐く。
キッチンの方から、食器が擦れる音や電気ポットを操作する音が聞こえる。
わざわざカカシを呼び付けてまで、ヤマトはお茶が飲みたかったのだろうか。
それにしては随分と乱暴にカカシを引っ張って行ったように見えたけど。
いくら付き合いは長くても、何の許可もなくキッチンを使うのは気が咎めたという事だろうか。
間もなくしてカカシが一人でキッチンから出て来ると、ソファーではなく、テーブルとソファーの間の床の上に正座をした。
さっきまで持っていたマグカップを手に取り、イルカにまで音が聞こえる勢いでごくごくと咽喉を鳴らして緑茶を飲み干した。
膝の上で両手の拳を握り、イルカを見上げてくる。
「勝手に電話を切ったりして、すみませんでした」
開口一番にカカシから出た言葉に目を見開いた。
じっとカカシを凝視しながら、言われた言葉を頭の中で何度も繰り返す。
カカシの口から続く言葉が何なのか、全く予想出来ない。
謝るくらいなら、はじめからやらなければいいのに。
そう思う半面、カカシにはイルカの常識は通用しないのだと、諦める気持ちもあった。
泣いてしまった事で少し昂ぶっていた心を何とか落ち着かせる。
「あのままだと、あなたが帰っちゃうんじゃないかと思って…」
強引なやり方とは裏腹なカカシの言葉に、イルカの眉間に寄った皺が更に深くなる。
イルカを足止めするのが目的なら、そこまでする理由は何だというのだ。
キッチンから顔を出したヤマトが、事の成り行きを確かめるためか、慎重にこちらの様子を伺っている。
またカカシが何か言い掛けた時、カカシの後ろのドアが勢いよく開いた。
「カカシ!棚にあったものを着させてもらったぞ!」
突然、金髪と真っ赤な唇が印象的なとてもきれいな女性が、信じられないほど豪快な口調でイルカの目の前に現れた。
男性物のパジャマのような全体的にゆったりとした服を着ているのに、胸元だけが窮屈そうに大きくはだけている。
イルカはぽかんと口を開けたまま、身動きが取れなくなった。
全身の血液が逆流して首から上に集まって来ているんじゃないかというほど頭に血が上る。
イルカの変化に逸早く気付いたカカシが、素早い動きで後ろを振り返った。
「ちょっ…!綱手さんっ、…ヤマト!」
かなり慌てた口調でヤマトを呼び、二人掛かりで綱手をドアの奥へと押し込んだ。
心臓が信じられない早さで心拍を刻んでいて、呼吸まで乱れている。
女性の豊満な胸元を、こんなに間近で見たのは初めてだった。
膝ががくがくして立っていられない。
壁に背を付けたまま、ずるずると床へ崩れ落ちる。
尻餅をついてもまだ震えている膝が視界に入るのが嫌で、無理矢理両膝を抱えて丸くなった。
ぎゅうっと目を閉じると、急に瞼の裏に大きなベッドが浮かび上がってきた。
透明なガラス一枚で隔たれただけの隣の部屋。
薄着で現れた妖艶な女性。
一つ一つの状況が、パズルのピースのように繋がっていく。
一体ここで何が行われようとしているのだ。
もう何も考えたくない。
怖い。
「っ…ごめんね…、大丈夫だから…、ごめんね…」
大きな手で優しく肩を擦られ、恐る恐る顔を上げる。
イルカがどんな顔をしていたのか自分でも解らないが、それを見たカカシがとても悲しそうな顔をした。
あっと思う間もなく、カカシの両手がイルカの背に回り、力強く抱き締められた。
カカシが耳元で何度も謝罪の言葉を繰り返す。
他人から与えられる体温や、この身を預けられる逞しい腕。
すっかり忘れていた感覚に、不覚にも心地良さを感じてしまった。
人からこうして抱き締められるのはいつ以来だろう。
記憶を辿って蘇ったのは、中学校の卒業式の日。
中学校の卒業式が、あの老人の家に住む事が出来たタイムリミットだった。
卒業式、老人の入院、全寮制の高校への入寮、その全てが重なった日。
イルカが独りで生きていく覚悟を決めた、忘れられない日でもある。
何度も入退院を繰り返していた老人の担当医に『次に入院する時は帰れないと思って下さい』と言われていたが、本当にその通りになってしまった。
イルカを包むのが小さな体ではなく、皺だらけの手でもないけれど、なぜだか安心するような温かさは変わらない。
「…すみません…、もう大丈夫です…」
カカシの胸を押して離れようとすると、僅かな抵抗を感じた。
少し力を強めて更に押すと、イルカの意思が伝わったのか、カカシの拘束が緩む。
「…落ち着きました?」
まだ心配そうに見つめてくるカカシの視線が至近距離から注がれ、気恥ずかしくて目を逸らす。
情けない所を見られてしまった。
顔が熱くなってきて俯くと、再びカカシの胸に引き寄せられた。
「オレ…」
「カカシ先輩!綱手さまが服乾いたら帰るから待ってくれって…」
カカシが何かを言いかけたのとほぼ同時にヤマトが戻って来た。
もう少し続きそうなヤマトの言葉が尻すぼみに小さくなり、大きな目で不思議そうにこちらを見つめてくる。
刺さるような視線に耐えられなくなり、壁に手を付いて立ち上がろうとすると、イルカを包んでいたカカシの手もすんなりと剥がれた。
完全に立ち上がり、ふと窓を見ると、本降りなのは一時的だったようで、今は弱い雨がぱらつく程度に収まっていた。
これでカカシの家に留まる理由はなくなった。
「雨、止みそうなので、もう帰ります」
今度はカカシも引き止めなかった。
勇気を振り絞って、綱手を押し込んだドアの方へ向かう。
ドアの前に立っていたヤマトがさっと道を譲ってくれたので、息を飲んで玄関へと続く廊下へ踏み出した。
途中にあるドアのどこかに綱手が隠れている。
そのドアが急に開いても何も見えないように、イルカはつま先をじっと見つめて下を向いたまま玄関まで歩いた。
入って来た時とは違って靴で散らかった玄関から自分の靴を取る。
「色々とすいませんでした。改めてお詫びもしたいので…、また…来て下さいね…」
靴に足を通してから振り向くと、カカシが困った顔をしてこちらを見ていた。
この家にもう一度来たいとは思わない。
だから、カカシの言葉には触れず、静かに告げた。
「お邪魔しました」
玄関ドアを開け、外へ出る。
ドアが閉まり、オートロックで鍵が閉まっても、背中にカカシの視線を感じるような気がして後ろを振り返る。
もちろんカカシは追って出て来ている訳でもなく、重厚なドアが立ちはだかっているだけだった。
安堵のような落胆のような溜め息を吐き、イルカはエレベーターホールへ向かった。
とても長くて、とても疲れた一日が、ようやく終わりを迎えた。






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2007.12.31