あの長かった日の翌日から、驚くほど変わった事がある。 やけにイルカに絡んでくる所は変わらないが、明らかにカカシの態度や行動に棘がなくなったのだ。 同じサークルのメンバーになって関わる機会が増えたので、それだけは非常にありがたかった。 副責任者をしていたテニス部も、どうやらきちんと退部できたようだ。 テニス部から温泉同好会に移って来た女子が、カカシを追って来たとか、そんな事を言って騒いでいた。 そして、カカシ目当てで集まる女子は一人や二人ではなかった。 また、その女子目当てに男子の入会者も自然と増えた。 元からいたサークルメンバーも喜んでいた事だし、これで良かったのだと思う。 ただ、以前と比べて華やいだサークルはイルカには居心地が悪くて、アルバイトがあって参加出来ない時も今は残念とは思わなくなった。 学食のテーブル1台でミーティングが出来た頃が懐かしい。 でも、そうやってイルカの楽しみが一つ減っても、もうカカシのせいにするのはやめた。 時間は常に流れていて、一秒毎に変化してしまうものだから。 楽しい時間はいつまでも続かないし、苦しい時間だって永遠に続く訳ではない。 コテツやイズモのように良い人達と出会えただけでも、サークルに入った意味がある。 良い人と思える人が出来たという事は、人間不信も少しずつ良くなっているという事だ。 心のどこかではまだ、裏切られても傷付かないように構えている自分もいるけれど、これももしかしたら時間が解決してくれるかもしれない。 時間が流れるという事は、そういう事なのだ。 心配していたアルバイトも順調に決まり、先週からは1人増えて、現在は3人の生徒を受け持っている。 その中にはイルカと同じように両親を亡くした子どももいた。 いじめにあっていて友達もおらず、学校の授業にも付いて行けなくて、家庭教師を付ける事にしたそうだ。 イルカの前に何人かの家庭教師を付けたと言っていたが、どの人とも折り合いが悪くて長続きしなかったのだという。 その子に会う前に、イルカは勝手にその子の事を静かで大人しいタイプの子どもなんだと思い込んでいたら、全くそんな事はなかった。 元気でやんちゃで、明るい色の髪に良く似合った爛漫な子だった。 初対面からイルカの事を『イルカ先生』と呼んでくれて、照れくさいのと嬉しいのとで、その子の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてやった。 思い出すと、今でも顔がにやけてしまう。 今日もこれから授業が入っているが、その子の保護者に許可が取れたら、今度一緒にラーメンでも食べに行きたい。 初日の授業を始める前に、イルカは必ず相手の性格を知るためと、イルカを知ってもらうために、色々な話をする。 好きな食べ物や、好きなテレビ番組、好きな学科など、なんでも良いからとにかくコミュニケーションを取るのだ。 その子の好きな食べ物はカップラーメンと言っていたから、そんな物より何十倍も美味しいラーメンがある事を教えてあげたい。 「おいイルカ、ちゃんと聞いてんのかぁ?」 イズモの声を聞いて、びくりと肩が揺れた。 他の事を考えていた事がばれてしまっただろう。 「どっちにする?山奥の秘境と、南国の湯巡り」 毎年行われているという、夏休み恒例の2泊3日のサークル活動について、イズモがアンケートを取りに来たのだ。 今年は人数が多いから、2パターン用意してばらばらに行動するそうだ。 山奥の秘境の方はイズモが提案したプランなのだが、過酷そうなイメージからか、なかなか参加者が集まらないらしい。 イルカはどちらでもいいのだが、一つだけ選ぶ基準があった。 カカシがいない方。 相性の悪さは感じているので、極力関わらないに越した事はない。 それに、裕福で都会育ちのカカシはきっと、過酷な秘境なんて行きたいとは思わないだろう。 「秘境にします。イズモさんに付いて行きます」 「おー!イルカには解ってもらえると思ってたんだよ!じゃ、決まりな!」 イズモは嬉しそうに、軽い足取りで他のメンバーの所へアンケートを取りに行った。 大学が夏休みになったらアルバイトを増やして、もっと交際費を捻出できるように頑張ろう。 夏休みは家庭教師の授業が昼間になるから、その分、夜間は他のアルバイトが出来る。 夏期講習に向けて塾の講師とか、そういうアルバイトの求人が出ていないだろうか。 イルカの生徒が増えるかもしれない事や、旅行の事を考えると、随分久しぶりに胸が躍るような気がした。 「ちょっと、すみません」 突然、後ろから声を掛けられてトントンと肩まで叩かれて、イルカに用がある人物なのだと悟った。 振り向く途中で、その聞き覚えのある声が誰のものだったかを思い出し、反射的に身構える。 銀髪に青い目、白い肌。 人形のように出来の良い顔に、スレンダーで長身という、体躯に恵まれた男。 「コテツの紹介で、あなたが割の良いバイトを始めたって聞いたんですけど…」 口ごもりながら歯切れの悪い言い方をするカカシに、イルカはいぶかしげな目を向けて相手の出方を窺った。 嫌な事が起きてももう人のせいにしないと決めているけど、カカシが絡むと揉め事に巻き込まれる確率が高いから、イルカからは出来るだけ接触しないようにしている。 こうして唐突にカカシから接触があった時も、絶対に気を緩めたりしない。 トラブルの前兆や引き金は、些細な会話の中に隠れている事だってあるのだ。 「…家庭教師の事ですか」 まさかカカシが教師という職業に興味を持っているとは思えない。 どう見たって、子ども好きにも見えない。 むしろ、カカシが教師なんて職業に就いたら、生徒やら同僚やらと女性問題を起こして授業どころではなくなってしまいそうだ。 「本当に家庭教師?…デリヘルとか出張ホストとか…そういうのではないんですよね…?」 「デリヘル…?ホスト…?…?普通の家庭教師ですけど…」 聞いた事はあるが、意味をよく知らない単語が出て来て首を傾げる。 「オレ見たんです。あなたが一般のお宅に入って行くのを。人妻っぽい人とか、体格の良い男とか出て来て、玄関先で抱き合ったりキスしたり…」 家庭教師なのだから、一般の家に入るのは当然の事だ。 生徒の母親が人妻と言われれば、確かにその通りでもある。 玄関先で抱き合ったりキスしたり、という言葉には驚いたが、確かにそれも一度だけあった。 イタリア人の父親と日本人の母親とのハーフの生徒の家に初めて行った時の事だ。 イルカも戸惑いはしたが、欧米ではハグもキスも挨拶だという知識はあったから、直面しても取り乱さずに済んだ。 でも、どうしてカカシがそんな事を知っているのだろう。 「何なんですか。生徒の家に行って親御さんが出て来ただけじゃないですか」 「それ、確かめさせてもらえませんか」 真剣な顔と深刻な声で言うカカシの真意が掴めない。 大学側からカカシへ、公安調査のような依頼でもあったのだろうか。 それ以外にカカシがこんな事を言い出す理由が思い付かない。 「以前コテツの授業に参加したって言ってましたよね。オレにも見学させて下さい」 「待って下さいっ、確かめるとか見学とか、何のためにそんな事をするんですか?俺、悪い事なんてしてません」 「それは…」 そこで言葉を区切ったカカシが、複雑そうな顔をして視線を逸らす。 カカシの白い肌が、目の下だけ薄っすらと赤く色付いているように見えるのは気のせいだろうか。 「…ここでは…言いづらい事なので…」 細長い指で頬を掻き、ぎこちない動きでイルカに視線を戻してきた。 カカシの反応を見ても、怪しい対応をする人だという事以外はよく解らない。 ただ、学生が頻繁に行き来する廊下では易々と口に出来ない理由を隠し持っている事だけは解った。 イルカの身の潔白を証明するためにも、今回は素直にカカシの要請に従った方が得策ではないだろうか。 「解りました。ちょっと親御さんに確認してみます」 その場で鞄から携帯電話を取り出し、生徒の家に電話を掛ける。 出たのは母親で、事情を話すとすんなり許可を出してくれた。 これで、保護者に断られるという最後の望みもなくなってしまった。 電話の会話が聞こえたのか、カカシの顔が考えを巡らせているような真面目なものに変わっていた。 授業は17時からなので、4限目が終わったらすぐに大学を出る。 カカシにそれを告げ、講義が終わったら門の前で待ち合わせという事で一端別れた。 * * * * * 「すっかり先生って顔してましたね」 17時から2時間の授業が終わり、生徒の家を出て、まずカカシの第一声がそれだった。 その口調から、イルカへの妙な疑いは晴れたのだろうと予測できた。 しかし、カカシに『先生』なんて言われると、馬鹿にされているような嫌味を言われているような、そんな気がする。 生徒の母親もカカシを見て目を輝かせていて、授業をするのはイルカなのに、何だか肩身の狭い思いをした。 カカシの傍にいると、勝手にイルカが比較対象にされて、引き立て役に使われる。 やっぱりカカシには関わりたくないものだと、改めてそう思った。 「お腹空きません?お礼がてら奢るから、これから食事でもどうです?」 「次があるので。失礼します」 1分でも1秒でも早くカカシから離れたかった。 歩調を速めて駅に向かう。 イルカの言葉に嘘はない。 次の授業は隣町で、19時半から2時間入っている。 両親のいない、あの生徒の家だ。 本当はカカシと並んで歩くのも嫌なぐらいだったが、次の授業に思いを馳せて何とか自分を励ました。 ss top sensei index back next |