「わかりました。今回は諦めますよ」 カカシの声で確かにそう言ったのが聞こえた。 イルカは振り返る事もなく、そうか良かったと思って足早に駅へ向かう。 改札を通る時、既にカカシの姿はなかった。 言葉通り、ちゃんと諦めてくれたのだろう。 今までのしつこさから考えると不気味にも思えたが、あっさり別れてくれた事に異論はなく、むしろ喜ばしい事だった。 次の授業をする生徒は、小学生で一人暮らしをしている。 学費や生活費は身元引受人兼保護者をしている夫婦が出していて、イルカも家庭教師を斡旋された時に一度だけ会った。 とても感じの良い人達で、生徒も懐いているようだった。 一緒に暮らせる環境は整っているらしいのだが、生徒の方が一人で暮らすと言って聞かないのだそうだ。 きっとまだ、両親を失った傷が癒えていないのだ。 イルカにも解る。 血の繋がりもない他人と一緒に暮らすぐらいなら一人で生活したい。 それを叶えてくれる寛大な夫婦に巡り逢えた事が、あの子にとっては唯一の救いだ。 間もなくやって来た電車に乗り、次の駅で降りる。 改札を出るとすぐに賑やかな商店街が広がっていて、あの子がこの街に住みたいと言い張った理由が何となく解った。 ここには、いつも誰かが見ていてくれるような温かさや安心感がある。 商店街の途中を曲がって細道に入り、三本目の電柱を過ぎた所で足を止める。 この、新築でも年代物でもない中古アパートがあの子の居場所。 15分ほど早く着いたが、構わずにドアを叩く。 部屋の中から騒がしい足音がして、勢いよくドアが開いた。 「イルカ先生!待ってたってばよ!」 出てきた途端、腰にしがみ付いてきた生徒の髪をぐちゃぐちゃに掻き回す。 「今日はナルトの苦手な算数と社会だぞ!覚悟はいいか?」 「おう!のぞむところだってばよ!」 部屋に入り、窓際の勉強机に直行する。 ナルト用の椅子の横には、準備万端とばかりに折りたたみ椅子が置かれていた。 授業よりもイルカの来訪を楽しみにしていてくれるのは、嬉しいような悲しいような複雑な心境だ。 ナルトがランドセルから算数の教科書と問題集を出し、机の引き出しから勉強用のノートを取り出す。 このノートはイルカが家庭教師になる前から使われているものだった。 何人もの家庭教師と折り合いが悪かったと言っていた割には、ノートの始まりからしばらくは同じ筆跡が続いていた。 その次からは確かに筆跡がころころと変わっているのだけど。 出来ればイルカの筆跡も長く残したい。 前回の復習から入って授業を始めて2、30分経った頃だった。 静かな室内にドアを叩く音が響いた。 ナルトの家庭教師になって以来初めての来客に、イルカにも緊張が走る。 学校の友だちが来るにしては遅すぎる時間だ。 何かあったら、ナルトを守れるのはイルカしかいない。 「だれだろ…?オレの家に来るのなんておじさんおばさんとイルカ先生ぐらいなのに」 おじさんおばさんは電話してから来るし、と言いながらナルトが玄関へ向かう。 知らない人だったら開けちゃいけない、とは言ってあるけど心配で、イルカもナルトの後ろに張り付いて待ち構えた。 ナルトが思い切り背伸びをして、玄関ドアの覗き穴から外を窺う。 「あっ!」 大きな声を出して、ナルトが慌ててドアを開けた。 「よ!ナルト、久しぶり。近くまで来たから寄ってみた」 「カカシ先生!どうしたんだってばよ!外国人になりに行ったんじゃなかったのか!?」 「留学してただけだって。ま、去年帰って来たん…」 カカシの目がナルトの後ろにいるイルカに移った途端、カカシの口が止まった。 ナルトが親しげに名を呼んだのは、間違いなくイルカも知っている、あのはたけカカシだった。 カカシは、しっかり膨らんだビニール袋を持って立ち竦んでいる。 イルカも、ナルトがドアを開けた瞬間に咄嗟に掴んだ黄色い傘を握ったまま動きを止めていた。 不自然に言葉を切ったカカシを、ナルトが不思議そうに眺めている。 その視線に気付いたカカシが我に返り、空いている手でナルトの頭を掻き混ぜた。 イルカがついしてしまう仕草と、全く同じ事をしたカカシに更に驚く。 「どうせ碌なもん食べてないだろうと思って買い物してきた」 カカシがビニール袋を開いて中身を見せた。 「うげぇ。野菜ばっかじゃん」 嫌そうに言う割に、ナルトの顔は嬉しそうだ。 「…ところでナルト。その人、新しい家庭教師?」 「うん!イルカ先生っていうんだってばよ!」 傘から手を離し、軽く頭を下げた。 何を言っていいのか解らない。 ナルトがイルカに振り返り、カカシを指差す。 「イルカ先生、この人カカシ先生。すげぇチャラいんだぜ」 「ばっ、何言ってんだっ」 カカシが、小学生のナルトの言う事に過敏に反応して、結構本気で遮った。 たぶん本当の事だろうが、そこまで焦るような事でもないだろうとイルカは思う。 何だか微笑ましいやり取りに、イルカも肩の力を抜く。 旧知の二人を見て、イルカの胸に羨ましさと寂しさのようなものが同時に湧き上がってきた。 その気持ちを有耶無耶にするために、勉強机を指差して、ナルトに授業の話題を振る。 「算数どうする?ちゃんとやるよな?」 すっかり忘れていたようで、ナルトが苦い顔をして不機嫌そうに口を尖らせた。 「しょうがねぇなー。オレが勉強してるあいだに、カカシ先生メシ作ってくれってばよ」 ナルトの偉そうな物言いに、カカシは呆れながらも笑って、後ろ手にドアを閉めた。 それを合図に、ナルトが自発的に机に戻る。 イルカもナルトを追って机の方へ行こうとすると、後ろからするりと手首を掴まれた。 「イルカ先生も一緒に食べてってね。あいつも喜ぶから」 疎外感を感じていたイルカに、カカシの言葉は純粋にありがたかった。 どんな顔をしていいのか解らなくて、答えの代わりにカカシに曖昧な苦笑を返す。 カカシは、いつかとは違ってすんなりと手を離してくれて、そのまま台所へ入った。 ちゃんとナルトの要望を聞き届けるつもりなのだろう。 ナルトぐらいの年頃の子どもには、素直にわがままを言える相手が絶対に必要だ。 それがカカシ。 ナルトを弟のように感じ始めていたイルカには少し残念に思えた。 でも、諦めるのには慣れている。 ナルトの横に戻り、手元を覗くついでに表情を見ると、とても生き生きとした顔をしていた。 生徒が良い顔をしている事が、イルカには一番の喜び。 社会の授業に移ろうとする頃には、イルカ達のいる所まで良い匂いが漂ってきた。 ナルトがわざとらしく鼻を鳴らして、 「カレーだってば」 と呟いた。 授業中だというのに、ナルトの素直さにイルカの頬も緩む。 「もう少しだから頑張ろうな」 勉強の後にご褒美があるからか、苦手科目にも関わらず集中力が途切れなかった。 ナルトが一生懸命教科書を読み込んでいる時、ふと台所を見ると、カカシが椅子に座ってこちらを眺めていた。 なぜか楽しそうに微笑んでいて、イルカの視線に気付くと笑みを深くして手を振ってきた。 カカシの行動の意味が解らず、首を傾げてナルトに視線を戻す。 深くは考えず、イルカは授業時間の事に思考を移した。 今日は15分早く授業を始めたから、本来なら15分早く終わるのが正しいのだが、15分ぐらいなら普段は延長して授業を続けてしまう。 たとえ15分でも、ナルトが一人でいる時間を短くしたいという気持ちがあるからだ。 でも、今日は違う。 授業が終わってもナルトにはカカシがいるし、食事も待っている。 イルカが余計な世話を焼く必要はない。 時間通りに授業を終わらせると、ナルトは一目散に台所へ駆け込んだ。 机の上に教科書や筆記用具が散乱したままだけど、今日は特別に許す。 簡単に片付けながら、イルカも帰り支度を整える。 鞄を斜めに掛けて振り向くと、ナルトが鍋の中を覗いている所だった。 「おい、ナルト。イルカ先生が帰ろうとしてるぞ」 カカシがナルトの背中に声を掛けると、ナルトは台所に駆け込んだ時と同じくらいの勢いでイルカの腰にしがみ付いてきた。 「イルカ先生も一緒にカレー食おうってばよ」 イルカの服に顔をうずめたせいで、ナルトの声がくぐもった。 精一杯イルカを引き止めようとしているのが伝わってくる。 二人に水入らずの場を提供しようと思っていたのに、これでは断れないじゃないか。 「わかったから」 苦笑してナルトの頭を撫でる。 顔を上げると、カカシが先程と同じように楽しそうに微笑んでいた。 ss top sensei index back next |