食器の用意ぐらいは手伝おうと思って戸棚を開けると、そこは随分がらんとしていた。
茶碗も平皿も深皿も、どれも一つずつしか置いていない。
同じく、箸、スプーン、フォークも一人分だけだった。
カカシとナルトの二人分ならこの食器で間に合うだろうから、やっぱりイルカは辞退した方がいいかな。
胸の中で断り文句を考えていると、カカシがビニール袋をごそごそ探って中身を取り出した。
「後片付けが面倒だから買って来ちゃった」
アウトドアで用いるような使い捨ての容器、スプーン、フォークがテーブルの上に並ぶ。
先を見越したかのような用意の良さに、感心して言葉も出ない。
イルカだったら勿体なくてとても出来そうないけど、カカシにはそういう感覚が乏しいのだろう。
カカシの持ち込んだビニール袋から、もう一つ食材が出てきた。
電子レンジで温めればすぐに食べられるレトルトタイプのご飯。
これも割高だけど、カカシの言った通り、後片付けは楽になる。
ナルトがレンジにご飯を入れてスイッチを押し、勉強机の方へ戻って行った。
何をするのかと思えば、さっきまでイルカが座っていた折りたたみ椅子を持ってきて、今度はナルトがそこに座る。
二人用の小さめのダイニングテーブルに備え付けの椅子は一組で、ナルトが椅子を置いたのは、お誕生日席と言われる位置だ。
誇らしげな顔をして、残った椅子にイルカを促す。
三人分のご飯が温まった所でカカシがカレーを容器によそり、まさかの顔ぶれでの食事が始まった。
ナルトは口の周りを汚しながら、一生懸命カカシに学校の話や街の話をしている。
イルカにとっては、カカシが子どもと接する事だけでも意外だったのに、カカシはナルトの拙い言葉遣いに嫌な顔一つせず聞き入っている。
イルカが思い描いていたカカシ像と掛け離れた姿に、イルカもカカシに対する考え方を改めなくてはいけないと思うようになってきた。
女ったらしで強引な一面もあるのだろうが、そうではない穏やかな一面も持ち合わせているのだと。
ナルトの話を聞きながらカカシの様子も観察して食事をしていたら、食べ終わった時、味に関する記憶がほとんど残っていなかった。
「ちゃんと歯磨きして、風呂入ってから寝ろよ」
カカシが、ナルトが食べ終わるのを見計らって言った。
言われてみると、ナルトが少し眠そうにしている。
確かに、小学生が起きているには遅い時間だ。
イルカの身勝手でナルトとの別れを惜しんでいたら、生徒の睡眠時間を削ってしまう事になる。
「俺、そろそろ帰るな。次は月曜だぞ。忘れんなよ。じゃあな、ナルト」
鞄を持って玄関へ向かうと、ナルトがドアの前まで見送りに来てくれた。
「うん。イルカ先生、またな」
一応カカシに会釈してからナルトの家を出る。
商店街から近い住宅街だけあって、この辺りは外灯が多い。
夜でもほの明るい道を、駅を目指して歩く。
最初の角を曲がろうとした時、不意に後ろから呼び止められた。
「うみの君!ちょっと待って!」
慌てて出て来たのか、カカシは靴の踵を踏んだまま、バタバタと大きな足音を立てて駆け寄って来た。
「…5分!5分でいいから食後のコーヒーでも飲みませんかっ」
そんなに焦ってまでイルカを引き止める理由が思い当たらなくて首を傾げる。
考えた所で、イルカにはカカシの思考なんて欠片ほども汲み取れないのだけど。
肩で息をするカカシが、イルカの斜め後ろを指差した。
振り返って目に付いたのは、2台並んだ自動販売機。
自分達の存在を、明るさによって主張している。
イルカの答えなど聞かずに、カカシは自販機の前まで行って硬貨を投入した。
がこん、という音が二度続き、前屈みになったカカシが取り出し口からスチール缶を2つ取り出した。
片手に一缶ずつ持って、コーヒーの種類が書かれた面をイルカに向ける。
「ブラックと微糖、どっちが良いですか?」
カカシは早々と自販機の横に腰掛け、下方からイルカを見上げてくる。
躊躇いはあったが、ここまでされて断るのも大人げないと思い、微糖と書かれた缶に手を伸ばした。
あまりコーヒーを飲まないイルカでも、微糖なら飲めるだろう。
「良かった。オレ、甘いの苦手で」
少し距離を空けてイルカもカカシの隣りに腰を下ろす。
隣りからプルタブを開ける音が聞こえたので、小声で頂きますと言ってから、イルカもプルタブを開けた。
コーヒーの香りを吸い込み、飲み口に口を付ける。
苦味と甘味、それと後から来る酸味を咽喉の奥へと送り込む。
「あなた忙しい人でしょ。こうやってゆっくり話す機会なんて中々ない」
カカシの言う通り、イルカはいつでも日々の忙しなさに追われている。
あくせく働かないと生きていけないから。
「本当はオレ、ずっとあなたに謝りたかったんです」
「謝る…?」
「そう。だって最初っからオレ、あなたに酷い対応してた。毎日が自己嫌悪とジレンマの繰り返しで余裕がなかったんです」
正面を向いて視線を遠くへ投げるカカシの横顔が、自販機の明かりに照らされて、厳粛な面持ちを作り出している。
唐突に、その顔がイルカの方へ向けられた。
「ごめんね…」
微かに眉間を寄せ、真剣な目をして、ひたむきにイルカだけを見つめてくる。
急にどうしたのだろう。
イルカの率直な感想がそれだった。
謝りたいと言って本当に謝ってきたカカシに、イルカは何と答えたらいいのだ。
これは紛れもなくカカシの本音なのだと、そう訴え掛ける声が聞こえてきそうだ。
カカシの顔を見ていられなくて、まだたくさん残っている缶コーヒーへと視線を落とす。
マイナスの印象しか持っていなかった人に、そうではない印象を抱き始めたのはいつからだろう。
「今更こんな事言われても困りますよね…。でも、ちゃんと言えて良かった」
独り言のような声と共に、カカシの影が僅かに動く。
コーヒーを飲み干しているのか、ごくごくと咽喉の鳴る音が聞こえる。
何も言えない気まずさを振り払うように、イルカも缶コーヒーを煽った。
隣りのカカシが立ち上がる気配に、ふと視線を向ける。
「…5分過ぎちゃったかな…。付き合ってくれてアリガト。またね、イルカ先生」
自販機に併設された空き缶専用のゴミ箱に缶を入れ、カカシが駅の方に向かって歩き出した。
「あ…、あのっ」
咄嗟にイルカも立ち上がり、無意識のうちにカカシを呼び止めていた。
なぜ呼び止めたのか、自分でも解らない。
カカシがのんびりとした動きでこちらに振り返る。
「んー?」
「…ご、ごちそうさまでしたっ」
何か言わなければと思って、急遽出て来た言葉がそれだった。
「いーえ」
カカシはふわりと優しく微笑んでから、再び向こうを向いて歩き出した。
背中を向けたままイルカにひらひらと手を振ってくる。
駅までの道のりはカカシと同じなのに、イルカにはどうしてもその背中を追い掛ける事が出来なかった。
カカシの背中が見えなくなるまで目で追い、見えなくなってから、イルカはもう一度歩道の縁石に腰を下ろした。
さっきまでカカシが座っていた空間をぼんやりと見つめる。
見た事のない顔をしていた。
カカシと親しい訳でもないのだから、カカシの表情でイルカが見た事のないものなんていくらでもあるだろう。
でもイルカが感じたのは、そういう種類のものではない。
イルカが今までに出会って来た人たちを全て含めて、今までイルカが見た事のない顔をカカシがしていた。
あの表情から、イルカはどんなメッセージを受け取ったら良いのだろう。
残っているコーヒーをちびちびと飲みながら天を仰ぐ。
カカシを呼び止めた時、本当はあんな言葉ではなく、他に何か言わなければと思ったのだ。
でもそれが言葉にならなくて、辻褄の合う言葉でその場をやり過ごした。
未だに、ぴったり嵌る言葉は見つからない。
膝を胸に引き寄せ、空になった缶を力一杯に握り締めた。
「…とうちゃん…かあちゃん…」
得体の知れない不安に押し流されないように、奥歯を噛み締めてぎゅっと目を瞑った。






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08.05.27