荷物を置きに部屋に戻ると、ハヤテがベッドの上で本を読んでいた。 真っ先に、帰りが遅くなった事を謝る。 「イズモさんやコテツさんと一緒に行くって聞こえたので、大体の予想はしてましたから」 少し安心したが、直接ハヤテに伝えなかった事に変わりはない。 「うん。今度はちゃんと言ってから行くよ。ごめん」 「そうですね。でも、今度は私よりカカシさんに一声掛けた方が良いかもしれません」 「…?はたけさん?」 「ええ。あの人、イルカが出掛けた事を聞いて悔しがっていましたから」 イルカが帰って来た時の反応からでは、カカシが悔しがっている様子は伺えなかった。 カカシも一緒に温泉に行きたかったのだろうか。 元々イルカは一人で温泉に行くつもりだったのだから、前もって誘ってくれていたら、もしかするとカカシと同行する事もあったかもしれないのに。 そんな事を考えながらも、事前に誘われていたってカカシと同行している訳がない、とその可能性を否定している自分もいた。 そもそも、カカシが同行者を誘うなら女子の誰かだろうと思っていたので、イルカが出掛ける時に、カカシの事なんて頭の隅にも浮かんでいなかった。 ハヤテが温泉の感想を聞いてきたので、今日の成果をうきうきした気持ちで話し始める。 そのまま夕食の連絡が来るまで、ずっと部屋でハヤテと話し込んでいた。 * * * * * 温泉に入れなかったハヤテは、夕食の後に山小屋の共同浴場へ行ってしまった。 一人で部屋に戻るのは何となく寂しくて、イルカはダイニングテーブルの隅を陣取って本を読んでいた。 イズモやコテツは、他の参加者と一緒にソファーの方でお酒を飲んでいる。 お酒に関しては苦い思い出があるので、1杯ぐらいはと言われても、イルカはその度に断りを入れた。 イルカはまだ飲み会というものに参加した事はないけれど、きっと楽しいものなのだろう。 イズモ達の方から、何となくその雰囲気は伝わってくる。 しばらくしてパジャマ姿のハヤテが戻って来た。 ハヤテのパジャマ姿なんて初めて見たが、普段着よりも着こなしている感じがする。 お風呂セットはもう部屋に置いてきたようで、手には何も持っていなかった。 「疲れたので先に休みます。イルカも早めに休んだらどうですか。夕飯もあまり進んでいなかったでしょう」 ハヤテの言う通りだった。 温泉のはしごで、イルカも少し疲れたのかもしれない。 「明日の予定だけ立てたら俺も寝るよ」 おやすみ、と言ったハヤテにイルカも同じ言葉を返す。 まだ9時前だけど、やる事が終わったらイルカも早く寝てしまおう。 読んでいた本を閉じて、携帯しているパンフレットを開く。 イルカがどの温泉にするかを選んでいると、ソファーの方から急に女の子達の歓声が上がり、反射的にそちらに目を向けた。 みんなが一本ずつ割り箸を持っていて、イズモが持っている割り箸だけ先端が赤く塗られている。 その割り箸で、イズモがカカシと女子部員の一人を交互に指差している。 何だろうと思って見ていたら、カカシが女子の手をそっと取り、その甲にゆっくりと口付けた。 もう一度、大音量の歓声が上がる。 イルカはその光景を、驚きの眼差しで凝視していた。 人前でそんな事をするなんて。 カカシがこちらを振り返ろうとしたので、慌てて机に視線を戻す。 手に口付けられた女子は、往路で積極的にカカシに近付こうとしていた人だった。 みんなの前であんな事をするぐらいだから、カカシの方も、今回の参加者の中で、あの人が一番の好みだったのだろう。 「おい、あんまり騒ぐな。オレはもう寝る」 ソファーから少し離れた所でストレッチをしていたガイが立ち上がり、イズモ達に声を掛けた。 何が起きたかなんて気にも留めず、そのままガイは部屋へ戻って行った。 ガイがいなくなって急に心細くなる。 イルカも早く部屋に戻ろうと、大雑把な計画を立ててパンフレットに順番を書き込んだ。 パンフレットをポケットに差し込み、読んでいた本と飲んでいたペットボトルを持って立ち上がる。 イズモにおやすみを言いに行った方が良かったのだろうが、ソファーには近寄りたくなかった。 盛り上がるイズモ達の邪魔をしないように、静かに部屋に戻る。 室内の照明は全て消えていたが、カーテンが開いたままだったので、外からの月明かりで充分に視界を保てた。 カーテンを閉めないで寝るなんて、ハヤテも変わった所がある人だ。 ハヤテのベッドを通り過ぎてイルカのベッドへ行こうとした時、ある異変に気が付いた。 寝ているはずのハヤテがどちらのベッドにも存在しないのだ。 不思議に思って、部屋の明かりを点けてベッドとベッドの隙間を見る。 そこにもハヤテの姿は見当たらない。 一応トイレも調べてみるが、やはりハヤテはいなかった。 ベッドの前で呆然と立ち尽くしていると、控えめにドアをノックする音が聞こえてきた。 ハヤテだ、と思って相手を確認せずにドアを開ける。 「すみません、ちょっと困った事になりまして」 そこに立っていたのはカカシで、眉をハの字に下げ、頭の後ろをぽりぽりと掻いている。 「オレの部屋、隣なんですけど、ハヤテとガイが寝ちゃっててオレの寝る所がなくて」 「えっ」 「ハヤテは死んだように眠ってるし、ガイは一度寝たら朝まで起きないし」 そこまで聞けば、カカシの言いたい事は伝わった。 この部屋で寝かせてくれという用件だろう。 「イズモには許可取ってあるから、あとはあなた次第なんですよ」 本心では拒否したい。 でも、同室のハヤテが起こしてしまった失敗だし、ハヤテが寝るはずのベッドは空いている。 いくら似たような造りになっているからって、ハヤテが部屋を間違えなければ、と思わずにはいられない。 「…俺はもう寝るんで勝手にして下さい」 葛藤の末に出した答えがそれだった。 言った通りに、イルカはそのまま自分のベッドに潜り込んだ。 カカシが明かりを消して部屋に入ってくる気配を感じで、布団の中でカカシに背を向ける。 「ありがと。…おやすみなさい」 今夜はちゃんと眠れないような気がする。 体は確かに疲れていて、だるさも感じているのに、眠気が中々やって来ない。 カカシに見られているような気がして首を捻って後ろを見ると、カカシは既にベッドに入っていて、静かに目を閉じていた。 イルカの方に顔を向けた横向きの姿勢で眠っているから、見られているように感じたのかもしれない。 それからどれくらいが経ったのか、微睡みの中でドアをノックする音が聞こえて、目を擦りながら体を起こす。 もう一度ノックが聞こえ、ベッドから降りてのろのろと入口へ向かい、ゆっくりとドアを開いた。 「カカシさんは?」 さっき、カカシが手にキスをしていた女子部員だった。 彼女の服装というか格好に、イルカは目のやり場に困ってしまった。 風呂上りなのかどうなのか、体にバスタオルを巻いた状態でそこに立っている。 来年にはイルカも成人式を迎える歳なのだから、もうこんな事ぐらいで取り乱したりはしない。 彼女の声が聞こえたのか、カカシが起き出す気配がしたのでベッドに声を掛ける。 「はたけさん、お客さんです」 これからこの部屋で起こる事は、大人の男女では当たり前の事なのだ。 カカシと彼女を極力見ないようにして、クローゼットから毛布を一枚引っ張り出す。 それだけを持って部屋を出て、きっちりとドアを閉めた。 薄暗い広間に目を凝らしてソファーを見つけ、脇目も振らずにそこへ逃げ込む。 横になり、一気に広げた毛布を頭から被った。 結局誰かがここで寝る事になっていたのだ。 それがたまたまイルカになったというだけ。 今日は本当に疲れた。 目を閉じると、今日の出来事や色々な感情が渦となって蘇り、溢れ出してしまった。 いくら強く瞼を閉じても、じわじわと涙が浮いてくる。 嗚咽が漏れそうになり、必死で唇を噛んだ。 遠くで足音が聞こえたので、吐息まで押し殺そうと懸命に体を縮こまらせる。 「あの人は帰りましたから。部屋に戻りませんか」 カカシの声が、上からではなくイルカの耳の傍から聞こえる。 床に膝でも付いているのだろうか。 「こんな所にいたら風邪を引きます。調子、良くないんでしょう?」 黙り込む事で、寝たふりをする。 早く離れてくれ、と何度も胸の中で叫ぶ。 カカシが立ち上がる気配がしたので、諦めてくれたと思って少しだけ体の力を抜いた。 「オレがこっちで寝るから、あなたはちゃんとベッドで寝て下さい」 ソファーと毛布の間にカカシの腕が潜り込んできた。 それからすぐに、味わった事のない不安定感が訪れ、全身が強張る。 間もなくして安定感のある場所に下ろされ、ドアが閉まる音が聞こえた。 恐る恐る顔を出すと、イルカは毛布に包まったまま、ベッドの上に運ばれていた。 隣のベッドにカカシの姿はない。 しばらく呆然としていたが、疲れていたせいでイルカはそのまま眠ってしまった。 朝になって、みんなが起き出す頃まで、本当にカカシはソファーで眠っていた。 ss top sensei index back next |