イルカが身支度を整えて部屋を出ると、既にしっかり化粧をした女子達がソファーを取り囲んでいた。
ソファーにはカカシがいる。
沈黙する彼女達の静かな興奮がここまで伝わって来るようだ。
その不気味さにイルカの足が竦む。
女子達の隙間から見えたカカシの寝顔は、外国の童話に出て来る王子様のように整っていた。
あの中の誰かがカカシに口付ける事で、彼は目を覚ますのだろうか。
性別から間違っている夢物語だが、今それが実現すると言われれば本気で信じてしまいそうだった。
もしかすると、彼女達の中にもイルカと同じような事を考えている人がいるのかもしれない。
それならば、この異様な空気感も頷ける。
「カカシ、もう起きろよ」
カカシを起こそうとしない取り巻きを掻き分け、イズモが声を掛けた。
しかし、名を呼ばれた本人からは全く反応がない。
「カカシ!こんなトコで寝てたら邪魔だろ!早く起きろよ!」
イズモがかなり大きな声で呼び掛けるが、未だにカカシが起き出す気配はない。
繰り返し声を掛けながら、とうとうカカシの服を掴んで大きく揺さぶり始めた。
「…んー…」
「カカシー!起きろー!」
唸り声のようなものが聞こえ、カカシを揺さぶるイズモの腕の振りが大きくなる。
随分寝起きの悪い人だ。
呆気に取られて遠巻きに眺めていると、やっとの事でカカシが上半身を起こし始めた。
眠たそうに目元を擦っている。
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返してから、カカシがはっとしたように真っ直ぐにイルカの方へ視線を投げて来た。
服を掴んでいるイズモや、カカシを見下ろしている女子達など、何人もの人影を擦り抜けて。
何とも言えない気まずさを感じ、カカシから不自然に目を逸らす。
その先で視界に入ったダイニングテーブルにハヤテの姿を見つけ、助かったとばかりに慌てて駆け寄った。
「ハヤテ」
「おはよう、イルカ。昨日はすいませんでしたね。大丈夫でしたか…?」
「…うん。今日は間違えないでよ」
ハヤテの隣の席に腰を下ろす。
ただ座るという動作だったが、複数の関節に痛みを覚えた。
体も熱っぽいし、やり過ごせないほどの頭痛までやって来る。
どうやら本格的に風邪を引いてしまったようだ。
「イルカ」
ハヤテに呼ばれてゆっくり振り向くと、冷やりとした手の平がイルカの額に降りて来た。
もう片方の手はイルカの首筋に添えられる。
両手共、冷たくて気持ちが良い。
「朝食の後に薬を飲んだら、今日はベッドで過ごしなさい」
母親のようなハヤテの言葉に、ふっと笑みが漏れた。
わざわざ温泉地まで来て外出しないなんて勿体ないが、今日はハヤテの言う通りにしよう。
体の不調だけでなく、精神的な疲労もあるような気がするから、これで丁度良かったのかもしれない。
予定より少し早めに出揃った朝食を食べ始めると、すぐに新たな違和感を感じ取った。
食欲がない。
こんな重症なのは本当に久しぶりで、さすがにイルカも不安になってきた。
それでも何とか時間を掛けて残さずに食べ切り、ハヤテから分けてもらった常備薬を飲んで部屋に戻った。

* * * * *

ハヤテはオーナーの息子さんと出掛けて行った。
言われてみれば、イルカの知らない人が朝食の時、頻りにハヤテに話し掛けていた。
食事中でも爪楊枝を咥えている変わった人だったのでよく覚えている。
一番に出掛けたハヤテがイズモにイルカの事を伝えてくれたようで、出掛ける直前のイズモがイルカの部屋を覗きに来てくれた。
「大丈夫かイルカ。介添えに一人置いてくから、こき使っていいぞ」
「えっ、そん…っ、いいですっ、寝てるだけですからっ」
ベッドにいるイルカの返事など聞く間もなく、イズモは通り過ぎるようにして出て行ってしまった。
こんな体では追い掛けるより名前を呼んだ方が早いと思って、イズモの名前を大声で叫ぶ。
その声に遠くから『じゃあな』という無情な返事が聞こえ、続いて玄関ドアの閉まる音が聞こえてきた。
これではもう、どんなに声を張ってもイズモには届かない。
横着せずに、ベッドから降りて直接伝えていればよかった。
だって、旅行先で病人に付き添わせるなんて、いくらなんでも申し訳なさすぎる。
病人だからって、そこまでの身勝手は許されない。
誰が残るのか解らないが、その人が来たらイルカの事は気にせずに外出してほしいと伝えよう。
はー、と深い溜め息を吐いてうな垂れると、頭がずきっと痛んでこめかみの辺りを手の平で覆った。
「っ…苦しいの?つらい?…やっぱり下山して病院連れてった方が良かったんだっ」
かなり焦った声がして顔を上げると、トレイを持ったカカシが小走りで近付いて来た。
慌ててトレイをサイドテーブルに置き、床に膝を付いてイルカの顔を覗き込んでくる。
あまり顔を合わせたい人ではなかった。
「そんな…、大丈夫です。大した事ないですから」
こめかみからから手を離してカカシの方を向き、笑顔を作って何でもない事をアピールする。
カカシの真剣な眼差しが、探るようにイルカの顔色を窺っている。
「俺は寝てれば良くなりますから。はたけさんは気にしないで外出して下さい」
残ると言ってくれたカカシに対する礼儀として、出来るだけ丁寧な口調で告げた。
カカシに看病されるなんて、そっちの方が反って気を遣いそうだ。
「…悪いけど、最初から今日はあなたと一緒にいる日って決めて来たから諦めて」
「え…?」
「だから。あなたが外出しようがしまいが、2日目はあなたに引っ付いてようと思ってたの」
「…え…?」
聞き返すというよりも、カカシの言葉を上手く理解出来ない戸惑いから声が漏れる。
イルカの呟きは気にも留めなかったカカシが、さっき運んで来たトレイをイルカに差し出してきた。
トレイの上には、湯気の立ったカップが2つ並んでいる。
「どうぞ。オーナーからです」
勧められるままに片方のカップを取る。
カカシがトレイをサイドテーブルに戻し、もう片方のカップを手に取った。
カップに口を近づけると、ふわりと生姜の香りが漂った。
唇を尖らせて息を吹き掛け、僅かに温度を下げてから咽喉に流し込む。
「昨日は本当にすみませんでした」
その言葉を聞いて、ぴんと来た。
カカシは自分のせいでイルカが調子を崩したと勘違いして、罪悪感からここに残っているのだ。
それなら納得出来るし、話が早い。
寝る前にトラブルはあったが、結局イルカは昨日ちゃんとベッドで眠れたのだから、この体調不良とカカシとは全く関係ない。
今回の場合はむしろ、ソファーで眠ったカカシが風邪でも引いていたら、イルカの方に責任があるといえるような状況ではないだろうか。
とにかく、カカシに非はない。
「その事が原因で外出しないのなら、それは思い違いで…」
「だから違いますって!昨日あんな事がなくても、あなたがここに残るのならオレもここに残っていたんです」
解ったような解らないような返答に、ふうっと溜め息が零れた。
やっぱりカカシと意思の疎通を図るのは難しい。
「…呆れた?でもオレ、もうずっと長い間あなたとゆっくり話をしたいと思ってたから」
「俺なんかと話したって面白くも何ともないですよ」
それは前々から思っていた事だった。
以前にもカカシに似たような事を言われたが、もしかすると、その時からずっと言いたかった事なのかもしれない。
過度な期待は、するだけ無駄だ。
初めて本音を吐露したせいか、カカシの反応が気になって落ち着かない。
掴んだシーツに出来た皺をじっと見つめる。
肯定されるのも否定されるのも話を逸らされるのも、どれもがつらい。
カカシが何かを言おうとして息を吸う音が聞こえ、そんな些細な呼気ですらイルカの耳は敏感に捉えた。
「それはオレが決めます。…あ、苦しかったら横になって下さい。喋るのきつかったら話聞いてくれるだけでいいから」
それは、イルカの予想していたどの言葉とも違っていた。
はっきりした肯定も、白々しい否定も、話を逸らされる事もなく。
体が弱っている時に、あまり優しくしないで欲しい。
カカシの労り深い言葉に、不覚にも泣きそうになっていた。






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2008.09.05