生姜湯を飲んだ事で体の芯から震えるような寒気が薄れ、余計な毛布を重ねる手間が省けた。
「うみの君には世界で一番怖い事って、ある?」
最初から返事を期待していないような問い掛けに、せめて聞く体勢だけは整えようと、カカシに顔を向けた。
聞くだけで良いというのはありがたい。
会話を成立させるために必要な労力を、カカシの言葉や動作を見定める事に充てられる。
今まで理解出来なかった部分を理解するための手掛かりが、何か掴めるかもしれない。
「オレにはあるんです。まだ出来て間もないんだけど」
カカシが自嘲的な笑みを零し、ゆっくりと目を伏せた。
とても淋しそうに見える。
恵まれた環境の中で、何の不自由もなく過ごしている人が、何を怖がる必要があるのだ。
それとも、そういう現状が壊れる事が怖いのだろうか。
カカシなら、一度壊れたものぐらい、いくらだって手に入れる事が出来るだろうに。
そのための才能も実力も、きっと充分に持ち合わせている。
よほど言いにくい事なのか、カカシが躊躇っているのが伝わってきた。
「…あなたにね…嫌われたり、避けられたり、する事」
衝撃的だった。
力ない言葉の羅列が、するりとイルカの心の奥に突き刺さる。
冗談の欠片もない真剣な口調に加え、語尾に吐いた溜め息でさえ、憂いを含んでいるように聞こえる。
ただの貧乏学生のイルカが、カカシをそこまで追い詰める事なんて物理的に不可能じゃないか。
カカシは伏せた目でシーツのどこかを見つめ、ふっと一息吐いてから再び口を開いた。
「慌てて目逸らされたりするだけで、ズキってしちゃう」
カカシが、胸の辺りのシャツをぎゅっと握り締めた。
顔は笑っているけど今にも泣き出しそうなカカシに、掛ける言葉が見つからない。
微かに燻っていた罪悪感がじくじくと疼き出す。
今の言葉には心当たりがあった。
脳裡に、今朝のやり取りが蘇る。
ソファーから送られたカカシの視線から、有無を言わさず一方的に逃げた。
しかし、イルカに思い出せたのはその時の事だけだった。
もう数えられないぐらいの回数を、自覚のないままに繰り返していた事だろう。
情けない。
生活費も学費も何とか一人で賄えるようになって、人に迷惑を掛けないで生きているつもりになっていた。
カカシを見つめていられなくなり、手元のカップに視線を移す。
もっと違う方法でやり過ごす事だって、きっと出来たはずなのに。
その場では抗議も文句も何一つ言わなかったカカシがとても寛大に思えた。
「…たぶんね、あなたの笑顔が好きだから、その対極にあるものがつらいんだと思う」
悪意がなかったとはいえ、配慮に欠けた仕打ちを受けて尚、そんな事を言う。
「うみの君はさ、もっと笑った方が良いよ。あなたが笑顔になるなら、オレ何でも協力する」
なんて度量の広い人なんだろう。
カカシにこんな一面があるなんて全然知らなかった。
怖い事と正面から向き合い、それを克服しようと、前向きな方法を模索している。
今までもそういうやり方で、カカシは過去の色々な事柄を清算してきたのだろう。
自分の器の小ささがほとほと身に染みた。
カカシに敵視されているだけだと思っていた自分が本当に恥ずかしい。
「ナルトの前で見せてるような顔、普段も見せてほしいです」
唐突に出たナルトの名前に反応して、つい顔を上げてしまった。
カカシが頻繁にナルトの家を訪れる理由も、イルカが考えていたような浅い理由ではないのかもしれない。
イルカの身の振り方や、ナルトの将来に関わる重要な事なので、この際だからと、思い切って口を開いた。
「はたけさんは…ナルトの家庭教師に復帰する予定はあるんですか」
「復帰なんてしません。あいつの事は、あなたがしっかり見守ってやって」
カカシが強く断言した。
安心したのと同時に、やり甲斐に直結する責任感がむくむくと湧いてくる。
それと共に少しばかり体温が上昇して、頭の芯がぼうっとなってきた。
「…イルカ先生の事、大好きだから」
ナルトの気持ちを代弁してくれたつもりなのだろう。
自分で言っておいて照れくさくなったのか、カカシが不自然に視線をそらし、思い付いたように立ち上がった。
「すみません、話が長くなりましたね。オレは静かにしてますから横になって下さい」
持っていたカップをカカシに奪われ、休息を促される。
束ねていた髪を解き、何だか良い気分で素直に布団の中へ潜り込んだ。
カカシが横にいるというのに、とても安らかにイルカの意識が薄まっていった。

* * * * *

顔を撫でて行く風の心地良さにつられて目を開けた。
まだ焦点の合わない目で、それでもカカシが隣のベッドに座って本を読んでいる姿は、ぼんやりと確認出来た。
目を覚ました時に誰かが傍にいるなんて久しぶりで、自然と頬が緩む。
「…熱…下がった…?」
カカシの声に続いて、イルカの額に冷たいものが充てがわれる。
ひんやりした温度が心地良くて、更なる涼を求めてそこに手を伸ばした。
さらさらした表面に、ごつごつと凹凸のある輪郭。
全体を探るように辿っていくと、それがカカシの手だと気が付いた。
「す、すいません…」
焦ったような謝罪の言葉と共に、さっとカカシの手が離れる。
冷たくて気持ち良かったから、もう少し充てていて欲しかったのに。
空いた手で目を擦り、明瞭な視界を確保する。
ふらふらしながら上半身を起こし、枕元のペットボトルを取って、ちびちびと水を飲む。
朝よりは楽になったが、まだ体が熱っぽい。
隣で黙って立ち尽くしているカカシを見上げると、いつもより赤い顔をして、呆然と自分の手を押えたままイルカを凝視していた。
カカシは肌が白いから、少しでも顔色が変わると目立つようだ。
「はたけさんも熱があるんじゃ…」
寝起きの第一声は少し擦れていたが、カカシに風邪を移してしまったと思い、無理にでも声を出した。
「あっ、いえっ、オレは、だ、大丈夫、ですっ。あ、そうだ、オーナーが月見うどんを作ってくれるって言ってたんで、今っ、頼んできますねっ」
そう言って、足早に部屋を出て行った。
あれだけ動けるなら、カカシが言った通り、体は大丈夫そうだ。
間もなくしてカカシが戻って来ると、脱力したように隣のベッドに腰を下ろした。
そして、いかにもわざとらしい深い溜め息を一つ零してから口を開く。
「うみの君さぁ、急に手を握ってくるんだもん。オレちょっとドキドキしちゃったじゃない」
「えっ…、手を握るなんてっ、そんなっ。俺そんなつもりじゃ…」
「わかってますよ」
イルカが焦っているのを見て楽しんでいるのか、カカシがにこにこと笑っている。
からかっているのだ。
こうやってカカシの悪ふざけに巻き込まれるのは、別に今回が初めてではない。
回数を重ねるごとにその不快感が増幅されてもいいものを、慣れていくせいか、最近では逆に徐々にそれが薄れてきている。
嫌な事全てがそうやって薄れていったら、どんなに楽になる事か。
今つらいと思う事も、痛みに慣れるうちにそうでなくなる日が、いつか来たらいいのに。
「そんな顔しないで…。いじめてる訳じゃないんだから」
カカシの手がイルカの頭の上に乗せられ、子どもを慰めるように優しく撫でられる。
その手は、さっきイルカが冷たく感じたものと同じものとは思えないほど温かさに満ちていた。
カカシが大勢の人に慕われる理由が、何となく解ったような気がする。
「あ、出来たのかな」
カカシが突然そう言って立ち上がった。
何事かと思ったが、すぐにイルカの鼻にも良い匂いが届いた。
さきほどカカシがオーナーにうどんを頼みに行った時から開けっ放しだったドアから、オーナー本人が顔を出す。
おぼんにどんぶりが2つ載っている。
「具合、どう?」
イルカを見て尋ねたが、イルカの代わりにカカシが答える。
「少し食べて、薬飲んで、しばらく眠ったら良くなりますよ」
まるでイルカの担当医のような、自信たっぷりな口振りだった。
しかし、カカシの言った事は本当になった。
翌朝には熱も下がり、体の節々の痛みも、倦怠感も寒気も、全てがなくなっていた。






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2008.10.22