花見の準備に駆け回り、一段落着いた時に見た桜並木が忘れられない。 実際にはほんの数秒だったのだろうけど、周囲の喧騒が聞こえなくなるくらいには見入っていた。 こんな並木道を恋人と二人、腕を組んで歩けたら、どんなに幸せだろう。 イルカは、次に付き合う人とは結婚を前提に真剣に交際すると決めている。 だから、そんな相手と満開の桜並木を歩けたら、すごく幸せだろうと思ったのだ。 別に、夢見る少女のような事を言っているつもりはない。 本気でそう思っているのだ。 それを実現させるための作戦だって、ふた通りほど立ててある。 一つが、今度好きな人ができたら自分から積極的に迫っていく、というもの。 もう一つが、今度誰かに好きになってもらえたら大歓迎で受け入れる、というものだ。 「イルカ」 呼び掛けられて我に返る。 そういえば、やっと出席者が揃った所だった。 乾杯をしなければ宴会は始まらない。 今回の幹事をした同僚の掛け声に合わせて、手近な紙コップを持ち上げる。 ゴミ袋の用意がまだだったので、乾杯で一口飲んでからやろうと、不精して靴は履いたままだった。 しかし、それからの事をよく覚えていない。 気付いた時には見知らぬ部屋のベッドに一人で横たわっており、外が白み始めていた。 しかも飲酒の翌日にしては随分と頭がすっきりしている。 どうやら、こんな所で熟睡してしまったようだ。 首が動く範囲で辺りを見渡すと、枕元に写真立てが置いてあるのを発見した。 そこに見慣れた顔が並んでいるのが見えて、のんびりと手を伸ばして写真立てを掴もうとした時だった。 「起きたの?」 突然イルカの足元の方から声が聞こえて飛び起きた。 「か、カカシ先生っ」 「おはようございます。って言ってもまだ5時過ぎだけど」 「おはようございますっ…て、あ、あのっ、俺どうしっ…あ、いえっ、そのっ」 寝ぼけていた頭が一気に覚醒した。 目覚めた時に傍に人がいるのが久しぶりすぎて、少し混乱している。 「昨日の花見でイルカ先生がつぶれてたから、とりあえずオレの家に運んで来たんですよ」 「そうだったんですかっ、すみませんっ!ご迷惑をお掛けしてっ」 慌ててベッドを出て、床に正座した。 土下座に近いくらいまで、深々と頭を下げる。 すると、カカシが立ち上がる気配がしたので、さっと顔を上げた。 「ま、ちょっと座って下さい」 そう言って、カカシがベッドに腰を下ろした。 本当は、すぐにでも帰りたかった。 というか、穴があったら入りたい、という心境なのだ。 でもその反面、散々世話になっておいてここで逃げる訳にはいかないとも思うのだ。 カカシがぽんぽんと布団を叩き、イルカが座るのを促してくる。 たっぷりと逡巡してから、結局はカカシの隣に背筋を伸ばして浅く腰掛けた。 胸の鼓動が聞こえてしまいそうな距離にいるのが心許ない。 「桜、きれいでしたね」 こちらの動揺に配慮してくれたようで、カカシが当たり障りのない話題を口にした。 「そ、そうですね」 実はあまりじっくりは見ていないのだが、きれいだったのは確かなのでそう答えた。 「でも昨日は、桜よりももっと素敵なものを見つけたから、花見は中止にして帰ったんです」 「そう、だったんですか」 まだ冷静な対応ができなくて、いちいち大げさな相槌を打ってしまう。 それがどう影響したのか、不意にカカシがこちらに顔を向けてきた。 それを見て、あれ、と思った。 いつもよりカカシの表情が読みやすい。 薄っすらと穏やかな笑みを浮かべている事さえわかってしまう。 どうしてだろうと考えると、その理由はすぐに見つかった。 カカシの特徴とも言える口布と額当てが外されていたのだ。 混乱していたせいか、今頃になって気が付いた。 「…あなたの事ですよ?」 その声で現実に引き戻された。 カカシの素顔に、すっかり気を取られてしまった。 何の話をしていたのか思い出し、カカシの言った事を頭の中で整理する。 つまり、イルカを見つけた事でカカシの花見が中止になった、という事だ。 ますます申し訳ない気持ちが募ってきてカカシを見ていられなくなり、すっと目を伏せた。 カカシがあんまり嬉しそうな顔をしているものだから。 イルカを拾った面倒事を『素敵なもの』だなんて言い換えたりするから。 冗談を交じえて遠回しにイルカのだらしなさを指摘していた事に気付くまでに、時間が掛かってしまった。 「本当にすみません…。俺のせいで花見を台無しにしてしまって…」 きっとカカシは、つぶれるまで飲むな、とか、そういう事を言いたかったのだ。 カカシの素顔に見惚れていたり、忍のくせに言葉の意図を正確に読み取れなかったりしている自分が恥ずかしい。 「いえ、そういう意味じゃなくて」 イルカが反省していると、カカシがそれを擁護するような事を言ってくれた。 カカシとは個人的な付き合いはなかったが、ナルトたちが慕うだけあって優しい人なのだ。 そうでなければ、酔っ払いをわざわざ自宅に運んで寝かせたりはしなかっただろう。 カカシの善意に胸が熱くなる。 「何とも思っていないような男を、花見を取りやめてまで連れて帰る訳ないでしょう?」 人知れず感動していたイルカの耳に、少し楽しげなカカシの声が入り込んできた。 「イルカ先生に惚れてるんです。うちに連れて来たのも、下心があっただけだから気にしないでね」 その世間話のような口調に、そうなんですか、と普通に答えてしまいそうになって、慌てて言い返した。 「なっ、何を言って…」 終息しかけていた混乱が、またぶり返してきた。 カカシの話を理解しようとすると、頭の中に飛び交っている情報が互いにぶつかり合って打ち消されてしまう。 そのたびに、目の奥でちかちかと火花が散ったようになる。 しかし、次の瞬間はっとして、体のあちこちに触れて自分の体を確かめた。 予期せぬ箇所が痛んだり、肌がやけにべとついたりする、という事は今の所はなかった。 「昨日は何もなかったから安心して。オレだって意識のない相手に好き勝手するほど酷い人間じゃありませんよ」 カカシの言葉と自分の体に裏打ちされて、ほっと息を吐いた。 そもそも、もし不自然な部分があったら、まだ気付いていない事の方がおかしいだろう。 「でも、オレが通り掛からなかったら危なかったかもしれませんよ。あなた睡眠薬を盛られてたんだから」 「睡眠薬!?」 咄嗟に、素っ頓狂な声を上げてしまった。 どうしてそんなものを。 何かの嫌がらせだろうか。 昨日は同僚しかいない宴会だったのに。 「心当たりはないですか?薬学が得意で、あなたに好意を寄せていそうなヤツ」 「え?好意、ですか…?」 てっきり、悪意なのかと思った。 仮にカカシの意見が正しいとしても、相手を特定するのは難しいかもしれない。 薬学に関する知識は、アカデミーの教員なら誰でも、ある程度は持っている。 それに、イルカに好意を寄せていそうな同僚の心当たりなんて皆無だ。 なんだか頭がくらくらしてきた。 起き抜けなのに、考えなければならない事が多すぎる。 「ま、それはあとにしましょう。それより。イルカ先生はオレと付き合ってくれるの?」 カカシの問い掛けに、びくっとあからさまに肩が揺れてしまった。 |