そうだ。 たった今直面しているのは、そっちの問題だった。 カカシを見ていられずに、目を逸らして俯いた。 イルカの立てた作戦では、同性から好意を寄せられる可能性を考慮していなかった。 どうしよう。 酔いつぶれた翌日の朝一に、人生における大事な局面を迎えてしまった。 同性である事も、朝一である事も、全くの想定外だった。 「イルカ先生?」 背中にそっと手のひらを当てられ、斜め下からカカシに覗き込まれる。 カカシとの距離が、また僅かに縮まった。 黙り込んでいたイルカを不審に思っての行為なのだろうけど、妙にどきどきしてしまう。 「す、すみません…。急に色んな事があり過ぎて…少し混乱していて…」 「ああ。それもそうですよね」 イルカの言葉を穏やかな声で肯定できるほど余裕のあるカカシが羨ましい。 これほど包容力のあるカカシなら、イルカの恋愛観を話しても馬鹿にしないで取り合ってくれるかもしれない。 まだ自分でも対応に迷っている状況で、それはとても心強い。 「俺は…あの…。次に付き合う人とは結婚を前提にって決めてるんです…」 カカシはどういう反応をするのだろう。 そんな融通の利かない奴は嫌だと言って引き下がるだろうか。 それとも、上辺だけを取り繕って強引に交際に持ち込もうとするだろうか。 じゃあ結婚を前提に付き合おう、とか心にもない事を軽々しく口にしたらすぐに断ろう。 イルカだって、恋愛や性行為が放埓な時代に珍しい考え方に属している自覚はある。 でも、それを変える気はないのだ。 今が楽しければそれで良いという未成熟な恋愛とは違う。 二人で足並みを揃え、将来を見据えた交際がしたい。 「男同士で正式な結婚はできないじゃない」 カカシの口調は柔らかく、イルカに反論する感じでも不貞腐れた感じでもなかった。 「だけど、結婚と見なすような付き合いはできるんじゃないですかね」 カカシの言葉には、そうかもしれないと思わせるような説得力があった。 しかも、誤魔化したり有耶無耶にしたりしないで、真摯に答えてくれた事が嬉しかった。 「その相手って、オレじゃ駄目かな…?」 カカシの台詞に頭がボーっとなった。 こんなにへりくだった態度で迫られたら、あっさりと流されてしまう。 全然駄目じゃない、という意味で首をぶんぶんと振りそうになっていた。 まさに、その直前。 「ま、ゆっくり考えて下さい」 カカシの言葉に、はっとなった。 何も、性急に結論を出すような事じゃなかった。 カカシの言う通り、ゆっくり考えてからで良いのだ。 ひょっとしてカカシは、イルカが平静でない事を見抜いて、そういう選択肢を用意してくれたのだろうか。 改めて、カカシの懐の深さに感服させられる。 「今夜、夜桜でも見にいきましょう。イルカ先生の仕事が終わる頃に迎えに行きますから。返事はその時に」 そう約束をして、イルカは出勤準備をするために一旦家に帰った。 しかし、帰路を歩いている時にふと、終業後に会うのならゆっくり考えている時間はないな、と気が付いた。 終業を知らせる鐘は30分ほど前に鳴ったのに、まだイルカの業務は終わっていない。 午後の授業のあとに始めた資料室の片付けが長引いているのだ。 それをカカシに知らせたいのは山々だが、残念ながら連絡の取りようがなかった。 こういう時のためではないが、教員室の黒板にはイルカの居場所を書いて来た。 それを見ればカカシも、イルカがまだ仕事中なのだと気付いてくれるだろう。 これでもまだ、途中から同僚が一人手伝いに来てくれたので、一人でやっているよりは早く終われそうなのだ。 彼は、イルカなら分身を作って運ばなければならない大物を一人で運べるほど体格が良い。 その体格を生かして色々な場面で活躍してくれるので、イルカもよく世話になっている。 そういえば昨日の花見でも偶然、隣同士になっていたような気がする。 とてもおぼろげな記憶ではあるのだけど。 「…昨日、大丈夫だったか?」 棚の向こう側から、同僚が話し掛けてきた。 丁度イルカも昨日の事を考えている所だった。 片付けに終わりが見えてきて、お互いに多少のゆとりが出てきたのかもしれない。 「カカシさんに送ってもらったんだろ?その…体とか、別に何ともないか…?」 奥歯に物が挟まったような同僚の口調に首を傾げた。 しかし、すぐにそれが性的な意味合いなのだとわかって、大げさなぐらいに咳き込んだ。 「あ、当たり前だろっ」 事実、カカシとは何もなかったのだ。 今夜の花見の約束をしたぐらいで。 「なら良かった…。実は俺、イルカに謝らなきゃいけない事があって…」 作業しながら同僚の話に耳を傾ける。 「昨日、俺が飲むはずだった薬入りのビールをイルカに飲ませちまったんだ。ごめん」 「えー!」 驚きの声と共に、つい手が止まってしまった。 「俺、薬物耐性が強いから被験者になる事が多いんだけど、昨日のはアルコールと一緒に摂取した場合の実験でさ」 しかも、昏睡状態になった時のために人のいる席で飲め、と言われていたと聞かされて戦いた。 自分は、そんな危ないものを誤って飲んでしまったのか。 「量は調節してあったんだけど、イルカが飲んだ時はビビったよ。でも気持ち良さそうに寝てるから大丈夫だと思って…。ごめんな」 乾杯の前、桜に魅せられて惚けていたせいかもしれない。 そうでなければ、わざわざ同僚が手元に置いていただろうコップを取ったりはしなかっただろう。 同僚の手違いというよりはイルカの不注意が原因だ。 それに、飲んでしまったものは、もうどうしようもない。 「副作用とかはあるのか…?」 「常用しなければ大丈夫。ちょっと強めだけど、ただの睡眠薬だから」 ほっと一安心して、作業を再開した。 同僚の方からも吐息が聞こえてきた。 大事件に発展しなくて安心したのかもしれない。 もしかして彼は、この事を言うために手伝いに来てくれたのだろうか。 「あのあと結構大変だったんだ。カカシさんの連れてた女が暴れてさ。俺ビンタくらった」 「え…」 気の緩んだ同僚が笑い話のように語るのとは反対に、イルカは言葉を失っていた。 カカシが女性を連れていた事も、彼女が取り乱した事も、同僚が叩かれた事も、全部初めて聞く事だったのだ。 さきほど同僚から薬の事を謝られたが、これではむしろイルカの方が同僚に謝らなければならないではないか。 もちろん、カカシが連れていた女性に対しても。 そう考えたら胸に薄暗い霧が広がったようになり、視界までが暗くなってきた。 |