もうすぐスケアの売り込み方が変わる。 ようやく綱手が了承したのだ。 知名度を上げるために限界まで請けていた仕事を、出演料を釣り上げて本数を減らし、1本ずつの存在感を高めていく事になった。 奉仕価格だった学園祭などは、すべて断っているらしい。 この忙しさも、もうしばらくの我慢だ。 今日なんて、ドラマと映画の現場を3軒も渡ってきた。 演技の仕事は、一度覚えたセリフがなかなか頭から離れないのが面倒だ。 この日最後となる、生放送のラジオ出演を終えて、夜更けにイルカの家へ戻った。 カカシにとってイルカは、癒しであり、安らぎであり、愛の象徴だ。 そばにいてくれるほうが、よく眠れる。 シャワーは放送局で済ませてきたので、寝室に直行してイルカの隣にもぐり込む。 カカシが入れるように、空間を作っておいてくれるのが嬉しい。 朝、目が覚めるとイルカは先に起きていた。 公休日なのでイルカは休みのはずだが、自分は今日も早い時間から撮影が入っている。 食卓にいたイルカを、背中からふわりと包み抱く。 もう二度と、愛情表現が足りないせいでイルカを不安にさせたりはしない。 朝の挨拶と、日頃の感謝と、愛を囁き、洗面所へ行った。 簡単に身支度を整える。 習慣的に朝食は摂らないので、その足で玄関へ向かう。 いつも通り、イルカが見送りに来てくれた。 「いってきます」 「もう来ないでください」 ぱたん、と戸が閉まった。 今、なんて? 聞き返そうと戸を開けようとするが、すでに鍵がかかっていた。 強引に開ける事はできる。 でも、カカシを入れたくない、というイルカの意思を踏みにじるわけにはいかない。 戸を、軽く素早く2度ほど叩いた。 「イルカ先生」 応答がない。 聞こえていないはずはないのに。 もう一度「イルカ先生」と呼びかけて、室内の気配を探る。 だが、変化はない。 戸も鍵も動かない。 返事もない。 徐々に心拍が上がってきた。 変な汗も出てくる。 「…イルカ先生、開けてくれませんか…」 上擦りそうになりながらも、努めて穏やかに問いかけた。 それでも何も変わらない。 そろそろ出発しないと、現場に遅れてしまう。 「い、イルカ先生、また夕方に来ますから」 「もう来ないでください」 今度は、聞き違いだと自分を励ませないほど、はっきりと聞こえた。 イルカに何があったのだろう。 自分が何かをしたのだろうか。 撮影の空き時間や、移動時間が来るたびに、頭を抱えてしまう。 昨日の夜までは普段通りだったと思う。 という事は、夜から朝のあいだに何かがあったのだ。 自分がのんきに寝ているあいだに。 イルカはしきりに「来ないで」と言っていた。 カカシがイルカの家に行ったら困る理由ができたのだろうか。 他の誰かが頻繁に訪ねてくるようになった、とか。 その誰かとカカシが鉢合わせをしたら不都合だから、とか。 新しい恋人だろうか。 他国の間諜だろうか。 いや、イルカがそんな事をするはずがない。 きっと、カカシが眠って意識がないあいだに、イルカが嫌がるような事をしてしまったのだ。 まさか、無理やり行為に及んだのだろうか。 いや、でも、今朝、自分の体にそんな痕跡はなかった。 一体、何がどうして、こうなったのだ。 イルカは心の支えなのに。 別の何かで埋められるものではないのに。 もし見放されたら、どうやって生きていけばいいのだ。 「スケアさーん、そろそろお願いしまーす」 スタッフが楽屋に呼びに来た。 いつものようになめらかに頭が切り替わらない。 これから撮る役は、ヒロインを弄ぼうと近づいていく、女好きの跡継ぎだ。 シーンは、転びそうになったヒロインを助ける所と、脇役の女を手酷く振る所。 自身に暗示をかけるように、意識的に役の人物造形の沼に溺れに行く。 女好き、ろくでなし、優男。 スケアに来る役は偏っているので、慣れれば難しい事はない。 担当部分をさっと終わらせて、早くイルカと話をしに行きたい。 早足で楽屋を出た。 スタジオ内に建てられた、近代的な事務所セットに入る。 楽屋にこもる前よりも、スタッフの人数がやけに増えていた。 説明がないので、自分には関係のない事情なのだろう。 あまり気にせずに、決められた位置に立った。 まずは、ヒロインを助けるシーンからだ。 足元の段ボールにつまづいたヒロインを抱きとめて、抱きしめて、見つめる。 セリフが『腰ほそーい』『キスしていい?』『ベッドの上で受けとめたかったなぁ』『また抱かせてねー』。 無難にこなして、外出するヒロインを見送る画を撮る。 遠い目をした時に、ふと、視界の端に見覚えのある顔が映った。 OK! という監督の大声を合図に、その顔を探す。 スタジオの隅に立つ数十人の塊の中に、すぐに見つけた。 イルカだ。 どうしてこんな所にいるのだろう。 そういえば、以前もスケアのライブ会場にイルカがいた事がある。 仕事で来ていたそうだが、今回も何かの下見なのだろうか。 イルカが含まれている団体の人たちはみんな、一時入館用のカードを首から下げている。 スタッフが増えたように見えたのは、この人たちがいたからだったのか。 その時ふいに、イルカと目が合った。 だが、一瞬で逸らされる。 本番中は安定していた心拍が、自分でも戸惑うくらい一気に焦り始める。 「イル…」 「スケアさーん、今度はもう少し優しく抱きしめてくださーい。ちょっと強すぎでしたぁ」 ヒロインからの冗談半分のダメ出しに、内心ぎくりとなった。 滅多にかかない汗が、顔にも、背中にも、急に噴き出してくる。 イルカに見られた。 他の女を抱きしめている姿を。 他の女を口説いている姿を。 たとえ演技だとしても。 「次のシーン行きまーす」 まだ、役の女好きを裏付けるシーンが続く。 脇役の女に縋られて、口づけで引きとめられるが、『オレの女がお前だけだと思うなよ』と笑って突き放すのだ。 無理だ。 イルカの前で、そんな事。 だって、イルカの他にも関係を持っている女がいるんだぞ、と宣言しているようなものじゃないか。 今朝、あんな事があったばかりなのに。 「もう来ないで」を受け入れる理由になりそうな事はすべて排除したい。 これ以上、イルカに悪い心象を与えたくない。 そんな気持ちが空回りして、本番の演技はかつてないほどにひどかった。 密着しないといけない相手役から、距離を取ろうとしてしまう。 カメラ位置で誤魔化す、見せかけだけの口づけでさえ、躱して逃げてしまう。 セリフも言えない。 体が拒絶反応を示していた。 イルカに見られていると思うと、仕事だと割り切れない。 だけど、仕事で失敗する姿を何度もイルカに見られるのも情けない。 早く帰りたいのに、自分のせいで撮影が長引いていく。 もう地獄だった。 結局、進まないので15分ほど休憩を挟む事になった。 「スケアさんがNG出すのって珍しいですね」 「きれいな女優さんに何回も触りたいからでしょー?」 「違います、すいません、勘弁してください」 場を和ませるためだろうが、イルカの前では本当にやめてくれ。 どうしてもイルカが気になって視線を投げた。 目は合わないけれど、明らかに浮かない顔をしていた。 恋人が他の女とべたべたしていれば、それは嫌な気分にもなるだろう。 せめて言い訳をさせてほしい。 「そろそろ退出のお時間です」 その声をきっかけに、イルカを含む団体がスタジオを出ていった。 慌てて印を組む。 セットの陰に分身と変化でスタッフ1人を用意し、イルカをスケアの楽屋に案内するように仕向けた。 |