1か月なんて、あっという間だった。
上忍師は里にいる時間も長くてありがたい。
イルカとは週に1、2回ほど一緒に過ごしていた。
今が人生の絶頂なのではと思うほど、満たされた日々を送っている。
報告書を渡す時、今日もイルカに予定を聞こう。
時間が合えば、カカシの家で食事をして、ついでに泊まっていってほしい。
始まりがカカシ宅だったせいか、会うのもカカシ宅ばかりだった。
寒くなってきたので、また鍋もいいだろう。
カカシの正面で、ふうふう、もぐもぐしているイルカは、とても愛くるしい。
イルカがあまり料理をしないと知った時は意外だった。
といっても教師だけあって、栄養の知識はきちんと備わっていた。
手間を省いて、生野菜はむしるだけ、肉や魚も焼くだけで食べる事が多かったらしい。
自分も以前より料理をする機会が増えた。
広くはない台所で、イルカとわちゃわちゃいちゃいちゃしながら作るのは、かなり楽しい。
しかもイルカは、どんどん上達していく。
その様子がまた、けなげで愛おしい。
でも、そのせいで不安になる事もあった。
イルカが料理上手になったら、もっとモテてしまう。
ただでさえ、若くて、かわいくて、性格がよくて、魅惑の肉体を持っているのだ。
性的な気配の薄いイルカの体の秘密を知っている者は少ないとしても、陰で狙っている輩は男女問わず多いはずだ。
そうやってイルカの事で頭をいっぱいにして歩いていたら、受付近くの廊下の端で、さっそくイルカが男に絡まれているのが見えた。
男はカカシも知っている顔だった。
絡まれている、というのは大げさだったかもしれない。
相手はゲンマで、一般的には単なる立ち話の部類に入るのだろう。
それでも心配なものは心配なのだ。
イルカはすぐにカカシに気づいたようで、ぱっと目が合った。
会釈のような目配せを送られたけれど、すぐにゲンマのほうへ向き直ってしまう。
あまり面白くない。
イルカが他の男に意識を向けたようで。
もし困っているのなら頼ってくれればいいのに。
困っていないのなら、イルカの意識をこちらに向けたままにしてほしかった。
とにかく2人の会話に耳を澄ます。
「頼む。途中で退席してもいいから。内勤って女子から人気あんだよ」
「俺じゃ役に立ちませんって」
「そんな事ないって。今日は夜あいてるんだろ? だったら」
「他の人を当たってください。独身の同僚なら何人か心当たりがありますから」
「イルカがいいんだって。男女の上忍連中に囲まれてビビらないのってイルカくらいだろ」
おいおいおいおいおい。
これは合コン的な集まりの誘いじゃないのか。
しかも上忍だらけの。
イルカにはカカシがいるのだ。
余計な出会いを斡旋しないでくれ。
というか、今夜イルカがあいているなら、その時間は恋人の自分に与えてほしい。
少し強引に2人の会話に割り込んだ。
「なんの話?」
「あ、カカシさん。お疲れっす。今、飲み会の話を」
「イルカ先生に断られてなかった?」
「そうなんっすよ。こいつノリが悪くて」
「ノリとかじゃないでしょ」
「でもイルカが必要なんっすよね」
注意したつもりだったけれど、ゲンマに引く様子はなかった。
そんなにイルカを求められる場には、なおさら行かせたくない。
「諦めたら? 業務命令でもないんだし」
「命令じゃないっすけど、イルカのためにもなると思うんですよね」
眉が、ぴくっと動いてしまった。
だから、そのほうが困るのだ。
なかなか引かないゲンマに焦ってくる。
自分たちが付き合っている事を公にしてしまおうか。
いっその事、色々な順序を省いてイルカの親代わりでもある三代目に直接報告してしまおうか。
思わずよぎった物騒な発想を、慌てて掻き消した。
いけない。
勝手にそんな事をしたら、すぐにイルカに見限られそうだ。
もっと冷静にならないと。
「嫌がってるように見えたけど? 無理強いは駄目でしょ、絶対」
「そこまで言うなら、イルカの代わりにカカシさんが来てくださいよ。それなら女性陣も文句ないと思うんで」
あからさまな溜め息は零さずに飲み込んだ。
行くわけがないだろう。
ゲンマだって、カカシが交際相手の有無に関わらず、そういう場に出席したがらない事を知っているはずだ。
特に今はイルカという恋人がいるのだ。
どうでもいい相手らに構っている暇はない。
カカシが断ればイルカを出席させる大義名分になるとでも思ったのかもしれないが、合コンなんかにイルカとの時間を奪われてたまるか。
荒っぽくてもこの話を強制終了させようと、口を開きかけた時だった。
「そうですよね…。カカシ先生が参加するのが一番いいですよね」
イルカの言葉に体が固まった。
頭に一瞬、時が止まったみたいな空白ができた。
咄嗟に我に返ってイルカに向き直る。
「いや、オレは今日イルカ先生と…」
「俺の事は気にしないでください」
「じゃあ決まりっすね。19時から酒楽なんでよろしくっす。カカシさんが来てくれるなんて今日はラッキーだな」
「気の合うかたがいるといいですね。楽しんできてください」
そのイルカの言葉の衝撃に、また体が固まった。
時空がゆがんで、足元がぐらつく。
よろけそうになったのを、なんとか踏ん張って耐えた。
イルカに信用されているのだ。
イルカは心が広いのだ。
そうでも思わないと、自分を保てそうになかった。
だって、自分が逆の立場だったら、嘘でもそんな事は言えない。
しかし、ここで拒んだら、またイルカが標的になってしまう。
それは絶対に嫌だ。
だからといって自分はイルカと違って、すぐに穴埋め要員が見つかるほどの交友関係はない。
口の中に満ちた苦々しさを、奥歯全体で噛みつぶす。
渋々、渋々、承諾するしかなかった。



きっと。
イルカはゲンマの前でカカシとの関係を匂わせるような発言や態度を控えたのだ。
深い信頼があるから、カカシが出会いの場に行っても問題はないと思ったのだ。
イルカが参加せずに済んだのだから、総合的には合格点なのだ。
そう言い聞かせているものの、というか言い聞かせている時点で、腑に落ちない部分がある証拠なのだろう。
日曜日の昼下り、午後からの待機のために移動しているあいだも、先日のイルカの事ばかり考えてしまう。
本当はあの合コンを台なしにしてやりたかった。
でもそうしなかったのは、ひとえにイルカの代役で参加したからだ。
自分のせいでイルカの評判を落とすわけにはいかない。
不機嫌さを隠して、テキトーに話を合わせた。
かなり愛想よく振る舞ったほうだ。
イルカが参加していたらどうなっていたのだろう。
過度なスキンシップや、アルコールハラスメントが起きていたのではないだろうか。
帰路まで付いてこようとする女たちを振り切るのに、カカシでさえ苦労した。
男でも女でも、酔ったイルカを持ち帰られて、新たな相手にあの魅惑の肉体を知られてしまう所だったのではないだろうか。
イルカはそんな尻軽でも不誠実でもない事はわかっているのだけど。
自分たちの始まり方を棚に上げてというか、ああいう始まり方だったからこそ心配なのかもしれない。
「あのー、すいません」
もうすぐ本部棟という所で、通りかかった若い女性に声をかけられた。
ひょろっとした体つきに、薄っすらと日焼けした肌。
子どもと大人のあいだのような雰囲気。
18歳前後くらいだろうか。
目を合わせようとせずに、ひたすらカカシの手元をじっと見つめてくる。
なんだろう。
いかにも不審だけど、妙な敵意も好意も感じない。
「コノハコガネアミメテントウが」
「え? コノハ…?」
聞き返すと突然、彼女が華奢な手でカカシの手首を軽く持ち上げた。
もう一方の手で、カカシの肘と手首のちょうど中間あたりを指差している。
そこには3ミリ程度の丸い昆虫がいた。
カカシの肩に向かってよじ登っている。
忍服越しとはいえ、昆虫と接しているのに気がつかないとは、いくらなんでもイルカの事に没頭しすぎだった。
「コノハコガネアミメテントウ。本物、初めて見た」
木ノ葉、黄金、網目、テントウ、か?
テントウムシの仲間だろうか。
つやつやした黄金色の半球型の体に、斜め格子の白い模様が入っている。
カカシの腕を進む昆虫を、彼女はこちらの腕を抱き込みそうな勢いで至近距離から観察している。
あまりの集中力に、口を挟む事も振り払う事も躊躇ってしまってできなかった。
ふいに彼女が撫でるような動きでカカシの肩に手を載せた。
昆虫の歩みを妨げずに、自然と彼女の指先へと移したようだった。
「ありがとう」
彼女は腰のポーチから小さなケースを出して昆虫を収めた。
そのケースを眺めながら、ふらふらと草むらに紛れていった。
油女一族の者かもしれない。
気を取り直して本部棟へ向かおうとすると、正面から山中一族の当主、イノイチが歩いてきた。
隣にはなぜかイルカがいる。
日曜なのに出勤だったのだろうか。
「真っ昼間から見せつけてくれるじゃないか」
にやにやしたイノイチの言葉の意味がわからなくて聞き返す。
「なんの話ですか」
「隠すな隠すな。若いのとベタベタしていただろう。白昼堂々」
ぎく、とした。
後ろめたい事は何もなくても、今さっきまで若い女性がそばにいたのは事実だ。
とはいえ、あんな半分子どものような相手に気があると思われるのは心外だ。
特にイルカの前で。
「あれはただの通りすがりの虫好き女子です」
「はっはっはっ。しょうもない誤魔化し方をしなくても、俺もイルカも言いふらしたりしないぞ」
イルカも、という言葉になぜか胸が小さく軋んだ。
「誤魔化してませんよ。本当の事です。オレの手に珍しい虫がいたそうで。コノハなんとかテントウとかいう」
「そうかそうか」
カカシの言葉をまったく信じていない様子のイノイチは、愉快そうに笑いながら諜報部隊の建物へと入っていった。
この信じてもらえなさには既視感があった。
イルカと初めての朝を迎えた時の、あの感じ。
それだけで追い詰められているような気分になってくる。
2人きりになったイルカに、何から話そう。
女性の事を改めて説明するか。
イノイチの発言を否定するか。
いや、謝るのが先か。
あえて遠回しに休日出勤について尋ねるか。
迷っているあいだに、先にイルカが口を開いた。
「俺の事は気にせず、親しくしてくださっていいんですよ」
一見、肯定的な言葉が、鉄鉱石の塊で頭をぶん殴られたような威力でぶつかってきた。
まったくの無防備で、なんの防御態勢も取っていなかった。
死ぬかもしれない。
そう思うくらい、イルカの言葉が猛烈に痛かった。
さっきイノイチに、イルカも言いふらしたりしない、と言われて胸が軋んだ理由がわかった。
言いふらしても言いふらさなくても、イルカにはどうでもいい事だと思われているのでは、という「もしかして」が遠くによぎったから。
イルカの言葉から、それはもしかしてではなく、現状なのだと認めざるを得なかった。
そこまで根深いものだったのだ。
イルカのカカシへの不信は。
まだ全然ダメだった。
イルカの気持ちは、あの始まりの日から何も変わっていなかった。
こちらがどんどんイルカを好きになっていても、どんなにイルカの事ばかり考えていても、関係がなかった。
浮かれすぎて勘違いをしていた。
今は付き合いを了承してもらっただけでしかないのだ。
イルカの心は、まだまだ見果てぬ先にある。
まったく手の届かない所に。
自分だけが一方的に、都合よくイルカとの距離を見誤っていた。
1か月程度で挽回できるわけがないだろう。
イルカに体目当てと思われても仕方のない事をしたのだ。
真面目で実直なイルカを傷つけるような事をしたのだ。
一緒に過ごす時間があまりにも楽しくて、一番大切な部分を見落としていた。
あまりの独りよがりさに嘲笑が零れそうになる。
「…オレはイルカ先生にしか興味ないんだけどなぁ…」
にっこりと目を細める。
心も頭もあなたでいっぱいです、という気持ちを精一杯に込めて。
でもたぶん、イルカには1000分の1も伝わらないのだろう。
「興味の対象なんて簡単に変わりますから。気が変わったら、いつでも教えてください」
「オレはそんなに浮気な男じゃないですよ。けっこう一途なんです」
自分たちを隔てる渓谷は、だいぶ険しくて深そうだ。
どうしたら攻略できるのだろう。
まったく見当がつかない。
でも、絶対に諦めない。
これからもイルカへの好意は惜しまずに、地道に言葉や振る舞いに現し続けていく。
イルカがわかってくれるまで。
「…カカシ先生、無理してませんか」
「してないよ、全然」
イルカには無理をしているように見えるのだろうか。
という事は、多少なりとも必死さが伝わっていると思っていいのだろうか。
今はまだ、かすかな希望の種を拾い集めるしかなかった。






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2023.06.24