俯きがちな視線を正面に向け、意識して口角を上げる。 万が一でもカカシが気に病んだりしないように、一般的な祝いの言葉をかけるくらいはしたほうかいいかもしれない。 大丈夫、大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。 小さく息をついて待機所に入った。 ソファーにいたカカシと、ぱっと目が合う。 どことなく嬉しそうに目元を緩めてくれるのが、こちらこそいつも嬉しかった。 もう4か月だ。 カカシの家で寄せ鍋の準備から一緒にするのが楽しくて大好きだった。 任務から帰ってすぐに会いに来てくれた時の、じっくりと沁み入るような抱擁の充足感は一生忘れない。 いい思いを、もう充分にさせてもらった。 今までありがとうございました、と心の中だけで呟いてカカシに封筒を渡した。 「三代目からです。おめでとうございます」 これがカカシとの別れの挨拶だ。 思いのほか前向きな言葉で終われてよかった。 「え、何? 特別休暇の支給でも決まった?」 そう言ってカカシが封筒を開け、中身を出した。 嬉しげなカカシの声のせいか、周りに人が集まってくる気配がした。 失礼します、と告げて踵を返し、逃げるように待機所を出る。 早足で受付へ向かった。 1秒でも早く仕事に没頭したい。 集中して早く仕事を終わらせて、早く家に帰りたい。 早くシャワーを浴びて、早く感情を解放したい。 そうしないと息が続かない。 酸欠で死んでしまう。 「待って、イルカ先生」 「っ…」 咄嗟に無難な対応ができなかった。 後ろから声をかけてきたのはカカシだった。 「すみません、今急いでいて。あとでもいいですか」 足を止めず、振り向きもせずに答えた。 今カカシの顔を見たら、どうなるかわからない。 声を聞くだけでもつらい。 「あとって、今日の夜とかですか?」 「すみません、今日は用事があって」 「じゃあ、いつなら大丈夫ですか?」 返事ができない。 カカシとの時間を作る気は、もうない。 それがけじめというものだろう。 自分は飽く迄もカカシに次の人が現れるまでの繋ぎだったのだ。 「ちょっと今はわからないです。すみません」 真っ直ぐに行くと見せかけて、突然階段で曲がった。 カカシには陽動にもならないけれど、そのまま駆け下りていく。 ここまでして、話す事はない、という気持ちが伝わらないほど、カカシは察しの悪い人ではない。 「…すみません。やっぱり今、少しだけ時間をください。手短に済ませますから」 言いながら距離を詰めてきたカカシに、巧妙に踊り場の角へと追い込まれた。 カカシがイルカを囲むように壁に手をつき、とん、と背中が硬く冷たい壁に当たる。 逃げられない。 隙がない。 この距離では内心を見透かされてしまう。 「さっきの封筒、中身知ってましたか」 「なんとなく…。カカシ先生に身を固めてほしいと三代目がおっしゃっていたので」 目を合わせられなくて俯いた。 少しでも気を抜いたら声が震えてしまいそうだった。 「イルカ先生にとって…あれは、めでたいものなんですか」 「…カカシ先生にとっておめでたい事は、俺にとってもめでたい事です」 それくらいの分別はある。 しかも、この不自然な関係を終わらせる事ができるのだから、尚更めでたい事だろう。 体から始まった関係の責任感や罪悪感なんて、いつまでも持たせ続けていいようなものじゃない。 自分との付き合いを解消する事は、何よりもカカシのためになる。 カカシだってわかっているはずだ。 それなのに、封筒の中身がどうか、めでたいかどうか、なんて。 わざわざ遠回しにそんな事を尋ねて、本当は何が聞きたいのか。 ひとつだけ、思い当たる事があった。 「…俺たちの事は誰にも口外しません。何も…なかった事にしてくださって大丈夫ですから」 口止め。 その言葉だけは直接イルカから聞いておきたかったのだろう。 もうそろそろ限界かもしれない。 視界が潤んできた。 カカシの用だって済んだはずなのに、どうしてまだイルカを囲む手を緩めてはくれないのだろう。 耳のそばで、みし、という壁の軋む音がした。 「…そうですか。わかりました。まだ三代目は上にいますよね」 「っ…」 ふわ、と体が宙に浮いた。 カカシの肩に軽々と担がれる。 反動で、ぼろぼろぼろ、と涙が溢れた。 それに気を取られた一瞬で、火影室の前に移動していた。 どうしてこんな所に連れてきたのだ。 縁談について決めるのはカカシで、回答に自分は必要ない。 抗議する間もなくカカシがドアをノックして、中からの返事も待たずに入室していく。 そこでようやく降ろされた。 慌てて三代目に一礼をして退室しようとしたら、ばしっ、と音がするほどの勢いでカカシに腰を引き寄せられた。 「あ…。すいません、急で驚かせちゃいましたよね、すいません」 小声で言ったカカシが、イルカの目元に紙か布を当てて涙を吸い取った。 泣き顔をカカシに見られた。 向こうには三代目もいる。 もう嫌だ。 情けなくて、いたたまれなくて、逃げ出したいのに、カカシが放してくれない。 「三代目」 「不躾じゃな」 「この人と添い遂げると決めたので、今後一切こういう手配はやめてください」 カカシが先程の封筒を、ばたん、と乱暴に三代目の机に叩き返した。 添い遂げる? 聞こえた言葉が信じられなくて、思わずカカシのほうへ顔を向けていた。 「…なんじゃと」 「オレたちの邪魔をするのはやめてくださいと言っているんです」 「突然そんな事を言われて納得できるわけがないじゃろ」 「…っ、そうですよっ、カカシ先生っ」 「納得してください」 我に返って三代目に同意しても、カカシの主張は変わらなかった。 あの温厚な三代目が怒っているように見えた。 せっかく用意した縁談を跳ね返されれば、そういう気持ちにもなるだろう。 「お主のような危なっかしい奴にイルカはやらん」 「イルカ先生は三代目のものじゃないでしょう」 話の方向がズレ始めていないか。 本題はカカシの縁談だろう。 「大体、その様子ではイルカがお主と添い遂げようとは思っとらんじゃろ」 「今はそうかもしれませんが、近いうちにそう思うようになるんです」 「話にならんな」 「とにかく、オレもイルカ先生も縁談やら見合いやらは間に合ってますんで、よろしくお願いします」 里の最高権力者の前で、カカシは一体何を力説しているのだ。 じゃあ、とカカシが一方的に話を終わらせた。 突然背中と膝裏に手が回ってきたと思ったら、また体が宙に浮いた。 今度は横抱きにされて瞬身を使われ、もう諦めて身を任せた。 涙は止まっていた。 先程の踊り場へと戻ってきて、そっと降ろされる。 手短に、というカカシの言葉に嘘はなかった。 ただ、そのあいだの目まぐるしさには圧倒されるばかりだった。 ふいに両方の肩をカカシに掴まれた。 けして強い力ではないのに、逃げるどころか逸らす事も許されない真剣さで見つめてくる。 「勝手に三代目に話してすみません。もうどうしたらイルカ先生に信じてもらえるのかがわからなくて」 「…すごく驚きました」 「うん。ごめんなさい。でもまだ信じてもらえませんか。軽い気持ちでイルカ先生と付き合ってるわけじゃないって」 カカシの中では、軽い気持ちと軽くない気持ちの交際があるのだろうか。 イルカとは、そのうちの軽くないほうの気持ちで付き合ってくれていた、という事だろうか。 「本当は付き合っている事をもっと広く口外したいくらいなんです。何もなかった事になんて絶対にしたくありません」 口外したら困るのはカカシだろう。 他の交際相手たちが黙っていない。 「必ずオレの事を好きにさせてみせます。今までも何度か、好意を持ってくれたのかなと思ったらやっぱりダメか、みたいな事があったけど、必ずです」 とても口を挟めない勢いと熱のこもった声でカカシが畳みかけてくる。 こちらはもうとっくに好きになっているのだ。 引っかかっているのはそこじゃない。 じんわりと、もうどうなってもいいか、という投げやりな気持ちが湧いてくる。 どうせこれで終わりなのだから少しくらい吐き出しても。 「でも…。カカシ先生には俺以外にもお付き合いされているかたがいらっしゃいますよね」 カカシの片目が大きく見開かれた。 布に覆われている口元が、ぽかん、と開いているようにも見える。 イルカに気づかれているとは夢にも思わなかったのだろうか。 「…い、いません。いるわけないじゃないですか。オレが付き合ってるのは、オレが好きなのは、イルカ先生だけです」 そこからなの…、とカカシが力なく呟いた。 え…、と零したまま、今度はイルカの口が開いたまま戻らない。 違ったのだろうか。 何が、どこから、いつから。 いや、でも。 「そんなわけな…」 「あります。本当にイルカ先生だけです」 もしかして、前提というか根本から何もかもが間違っていたのだろうか。 「そんなふうに疑われるような事、オレ何かしましたか…?」 たぶん、具体的に何かがあったわけじゃない。 ただ、初めての朝を迎えた時の状況が、それまで耳にしてきたカカシの噂を裏付けるものだったから。 「…最初から、カカシ先生はそういう人なんだと思っていました」 「そういう人…。最初から…」 カカシの首が、がっくりと落ちた。 さきほどの熱さと勢いは、もうない。 「だって…カカシ先生は誰も好きにならないとか、体の関係しか持たないとか、複数と同時進行とか、飽きたら捨てるとか、一度揉め事になったら終わりとか、聞いた事があって…」 「あー…」 カカシが深くうな垂れたまま、昔の話です…と前置きをして、弱々しい声で語り始めた。 好きでもないのに断り切れなくて、何人かと立て続けに関係を持った事。 すぐにバレて、鬼の形相をした女性たちに詰め寄られて、その場で全員と別れた事。 苦しげなカカシの告白からは、複数の女性に囲まれて罵られる姿が目に浮かぶようだった。 よほどつらかったのか、ものすごい後悔が伝わってくる。 「それ以来、イルカ先生と付き合うまで誰とも付き合っていませんでした。本当です」 その言葉には再び力がこもっていた。 カカシが軽薄な関係には懲りている、という事はひしひしと伝わってきた。 でも、だったら、そんなにモテてきた人が、どうしてイルカを選んだのだろう。 何か特殊な事情があったとしか思えない。 恋愛的な好意とは関係なく、経験が豊富だからこその選択肢として。 訊くなら今しかない、と思った。 |