イルカの顔から、さぁーっと音を立てて血の気が引いていく。 急に手の感覚が鈍くなり、持っていたお盆を床に取り落とした。 ガシャーン、という派手な音にカカシが振り返る。 カカシは大きく目を見開き、次の瞬間、僅かに遅れて振り返ったヤマトをわざとらしいぐらい強く突き飛ばした。 これはハロウィンの余興なんかじゃない。 カカシの表情と仕草から、すぐにそれを察した。 途端に踵を返してその場から走り出すと、イルカは何も持たずに家を飛び出していた。 今まで感じた事のない不快感が胸に詰まっていて、やけに息が苦しい。 そういえば、ティーカップもティーポットもシュガーポットも、きっとみんな割れてしまった。 高価なものではないけれど、近くの雑貨屋さんでカカシと一緒に選んだものばかりだったのに。 それほど人通りの多くない道を、家を飛び出した勢いのままに走っていると、イルカの足にエプロンの裾がひらひらと翻って絡み付いた。 わずらわしさを感じて一旦足を止め、その場でエプロンを外す。 このエプロンも、カカシと色違いで買ったものだ。 二人で一緒にキッチンに立った思い出がたくさん染み込んでいる。 これをぐちゃぐちゃに丸めて捨てる事が出来たら、少しはこの胸の重苦しさも楽になったかもしれない。 でも、イルカには無理だ。 丁寧に畳んで小さくすると、それを小脇に挟んでとぼとぼと歩き出す。 いつも忙しいのに、カカシは時間の許す限りイルカと一緒にいようとしてくれて、常にイルカの事を大切に思ってくれていた。 そんなカカシが浮気相手の秘書を家に呼んだという事が未だに信じられない。 何かの間違いではないだろうか。 いや、何かの間違いであってほしい。 例えば、仮装したヤマトをイルカと勘違いしていたとか。 それが自分に都合の良い解釈だという事はわかっている。 でも、ヤマトはイルカと同じくらいの体格だったから、可能性がないわけではない。 慌ててヤマトを突き飛ばしたように見えたのも、イルカに見られた事を取り繕うためではなく、腕の中にいるのがイルカでなかった事に驚いたからだったとしたら。 そう考えると、その可能性がにわかに現実味を帯びてくる。 というかむしろ、そうでしかないような気さえしてきた。 そうだ。 暇さえあればイルカの事を考えていると公言して憚らないカカシが、浮気なんてするはずがない。 それなのに、カカシが暗がりでヤマトを後ろから抱き締めている姿を目の当たりにして、冷静な判断が出来なくなっていた。 早とちりをしてしまった後悔と居た堪れなさで急に足が重くなる。 「おう、イルカじゃないかのう」 するとそこに、聞いた事のある声と口調でイルカに呼び掛けてくる人がいた。 立ち止まって声の方を向くと、イルカが行きつけになった店で働いている日本人の職人の顔があった。 いかがわしい店が立ち並ぶ路地を背にして、白い長髪のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。 「自来也さん…」 「こんな時間にどうした? しかもそんな薄着で」 何と答えて良いのかわからずに口籠もる。 「ん? 恋人とケンカでもしたのかのう?」 近付いて来た自来也が、イルカの頭をぽんぽんとあやすように優しく叩いてきた。 「おや…? この匂いは…シナモンとハチミツ…それから、わしの作った食パンか?」 イルカの頭に顔を寄せ、自来也がくんくんと匂いを嗅いでくる。 親子ほど歳が離れているせいか、ヤマトの時のように顔が引き攣る事はなかった。 匂いだけでそこまでわかるとは、さすがに世界中を旅しながら流れで職人をしているだけの事はある。 「こんなに良い匂いをさせて歩いていたら、変な男に襲われても文句は言えないのう。一人は危ないじゃろ。わしがヤケ酒に付き合ってやろう」 誰がどう見ても男でしかないイルカを、まるで年頃の女性のように扱う所を見ると、この時間でも既に自来也はかなり酔っているようだ。 でも、歳の離れた人から心配されるのは、親から心配されているようで何だかくすぐったかった。 不意に、アカデミー時代にお世話になった三代目の顔が蘇る。 イルカが懐かしさにひたりそうになっていると、自来也の腕が自然と肩に回って来た。 ぐいっ、と引き寄せられ、当然のように路地の方へと促される。 確かに、このまますぐに帰るのは気まずいし、気分転換ぐらいはした方が良いかもしれない。 そう思って自来也に身を任せようとすると、そこに焦ったようにイルカの名前を叫ぶ、耳慣れた声が聞こえてきた。 「イルカさんっ! 早まらないでっ! イルカさんっ!」 あっという間にカカシに追い付かれて、腕を掴まれる。 「すいませんっ、オレが悪かったですからっ! ね、帰りましょうっ?」 「誰じゃ、お前は。イルカはこれからわしと夜の世界に羽ばたくのじゃ。邪魔をするな」 「じいさんは引っ込んでなさいよっ」 「誰がじいさんじゃ! わしはまだまだ現役じゃ!」 「余計に危ないじゃない! ねっ、イルカさん、こんなの放っておいて早く帰りましょうっ?」 イルカの顔を覗き込むように言ったカカシの目は不安げに揺れていた。 それを見て、頭で考えるよりも先に口が動いていた。 「すいません自来也さん…。飲みに行くのはまた今度に…」 頭を下げると、イルカの肩に掛かっていた自来也の腕が、すっ、と離された。 「そうか? 何かあったら相談に乗るからのう。いつでも来たらええぞ」 「えっ? 自来也…? まさかっイチャパラのっ? あ、いや、そんな事より、帰りましょうっ?」 カカシの温かい手に背中を押されて踵を返す。 その手がすぐに離れてしまった事を寂しく思っていると、ふわっ、とカカシの着ていたジャケットを肩に掛けられた。 カカシのぬくもりが残る布地に、じわじわと涙が染み出てくる。 肩を引き寄せられた事で余計に涙腺が緩み、鼻を啜る情けない音が漏れた。 「すいません…泣かないで下さい…。よりによってヤマトとあなたを間違えるなんて…。最低だよね…」 目の下を擦って涙を散らしていると、ハンカチを出したカカシがそこを丁寧な手付きで拭ってくれた。 こんなにイルカを大事にしてくれるカカシを、一瞬でも疑った自分が馬鹿だった。 「…俺が悪いんです。変なふうに誤解して…。すいませんでした…」 「イルカさんは悪くない。オレが勝手に…イルカさんが言ってたハロウィンぽい事がコスプレなのかと思って…」 そこまで言うと、カカシがぶるりと肩を震わせた。 「さっきのがあいつだったと思うと寒気が…。いつもと抱き心地が違うなとは思ったんです…。でも衣装のせいなのかと…」 カカシは家にヤマトがいるとは思わなかったのだろう。 体格もイルカと似ていたのだから、間違ったのは仕方がない。 でも、それならどうしてヤマトは、されるがままだったのだろう。 いきなり抱き付かれたりしたら、少しは声を上げたり暴れたりするのではないだろうか。 「あいつも…あんな時だけ大人しくしやがって…」 それまでは落ち込んだように静かに話していたカカシの口調に苛立ちが混じり始めた。 map ss top count
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