カカシは間違っていない。
男なんだから、酔って少しぐらい足元が覚束なくたって一人で帰るべきだ。
でも、落胆と悲しみが足枷になって、なかなか歩き出せなかった。
街灯の柱に抱き付くように掴まったまま、二人が消えて行った方向を呆然と見つめる。
しばらくそうしているうちに、通行人たちから浴びせられる訝しむ目に気が付いて、ごしごしと乱暴に顔を拭った。
いつまでもここにいるわけにはいかない。
もう帰ろう。
目に見えない重たい枷を引きずるようにして一歩を踏み出す。
だが、その途端に、まだ酔いがまったく醒めていない事に気が付いた。
ずっと泣きながら夜風に当たっていたのに。
民家の外壁に手を付きながらでも真っ直ぐに歩けない。
たびたび転びそうになる。
そのうちの何回かは実際に転んだ。
道にも迷った。
それでも、同じような住宅街をぐるぐると回っているうちに見覚えのある通りに出た。
帰路を確保できた安心感から、近くにあったバス停のベンチにぐったりと腰を下ろす。
かなり疲れていて、少しだけ、という気持ちで瞼を閉じた。
このまま眠ってしまったら風邪を引いてしまうだろうから、本当に少しだけ。
そう思っているのに、イルカの意識はどんどん深みへと落ちていく。
それが完全に途切れる前に、ふとイルカの手に何かが触れる感触があった。
あたたかい。
少しざらざらしている。
それでいて湿っていて、時々ふさふさと毛のようなものが当たる。
何だろうと思って、ぼんやりと目を開けていく。
すると、額に「忍」と書かれた茶色い小型犬が、イルカの手をぺろぺろと舐めていた。
目を覚ましたイルカに気が付いて、上目遣いでこちらを見つめてくる。
犬の首には額当てが巻かれており、胴体にはへのへのもへじ柄の布を身に着けていた。
カカシの忍犬だ。
「お前…ろうした…?」
どうした、と言おうとして失敗しながらも、前足の付け根に手を入れて抱き上げる。
くーん、という甘えたような声を出した忍犬が、イルカの首元に頭を擦り付けてきた。
突然現れたカカシの気配を纏った生き物の存在に、得体の知れない安らぎを覚える。
イルカも忍犬の頭に鼻先をうずめた。
微かに、本当に微かだけれど、カカシの匂いがする。
それが、ひどく懐かしくて、泣きたくなるほど愛おしかった。
腕の中にいるのが本物のカカシだったら、と思う事でさえ今は贅沢な事なのに。
カカシの気配を抱き込んで、じっと寂しさに耐える。
それでも忍犬から力を分けてもらったような気がして、ふらりと立ち上がった。
腕にぬくもりを抱いたまま、のろのろと歩き出す。
落とさないように、転んで押し潰さないように、と注意しているうちに、なんとか家に着いた。
途端に忍犬がイルカの腕から逃げ出して、闇に紛れていってしまった。
もしかして、酔ったイルカがちゃんと家に帰るかを見届けさせるために、カカシが忍犬を遣いに出してくれたのだろうか。
記憶がないのに。
あんなに冷たいのに。
でも、カカシの根本的な優しさは本当は何も変わっていないのかもしれない。
もう、それが自分に都合のいい解釈でも構わない。
そう思えたら、摩り減っていたイルカの心がほんの少しだけ前を向き始めたような気がした。



翌日は二日酔いがひどくて、朝から食欲がなかった。
水のボトルと数枚の書類だけを持って昼休憩に入る。
書類は待機所にいる上忍に渡すものだ。
胃の辺りを擦りながら待機所へ行くと、入ってすぐにカカシと目が合った。
だが、嫌悪感を露わにするように顔をしかめたカカシを見ていられなくて、さっと目を逸らす。
胃の不快感を上回る胸の痛みに、思わず顔を俯かせた。
カカシが待機所にいたらこうなるだろうという事は予想できたのに、どうしていちいち反応してしまうのだろう。
本当は昨晩の忍犬のお礼を言いたかったけれど、とても話し掛けられるような雰囲気ではなかった。
そそくさと用を済ませて、人けのない裏庭へと向かう。
階段の真ん中あたりに腰を下ろして水を飲み、ふっ、と小さく溜め息をついた。
いくらカカシの優しさに変わりはないと自分に言い聞かせてみても、実際に会うと怯んでしまう。
もうカカシの事を諦めたほうがいいのではないか、という気持ちになってしまう。
これ以上、カカシにあんな顔をさせたくない。
それに、顔を合わせるたびにどんどん嫌われていくようで怖い。
渇きなのか炎症なのかわからない咽喉の痛みを覚えて、もう一度水を飲んだ。
ぐい、と口を拭って、立ちくらみが起きないようにゆっくりと立ち上がる。
昨日、仕事を残して早く帰ったツケが、まだ片付いていないのだ。
でもその前に顔を洗っておこうと思い、普段はほとんど使われていない裏庭のトイレに立ち寄った。
洗面台の前に立つと鏡には、肌は青白いのに目だけは充血させている不健康そうな顔が映っていた。
小さく苦笑して、古い蛇口を捻る。
そのまま前屈みになろうとした時に、ふと鏡に人影が映り込んだ。
「具合悪そうだけど、大丈夫?」
背の高い細身の男が、いきなり声を掛けてきた。
名前はわからないけれど、顔は受付で見た事がある。
たしか、階級は特別上忍だ。
「あ、はい。大丈夫です」
イルカがそう答えているそばから、男がそろりと背中を擦ってきた。
男の指先から快とは言えないものが伝わってきて、慌てて身をよじる。
「お、俺の事は気になさらないで下さい」
男の手から逃れるように、咄嗟に両手のひらを彼に向けて振った。
それでも男が退こうとしないので、イルカのほうが後ずさる。
「ベスト脱いだほうが少しはラクになるんじゃない?」
僅かな距離を一気に詰められて、遮る間もなくベストのジッパーを下ろされた。
「い、いえっ、お構いなくっ」
鎧を一枚剥ぎ取られたような心細さを覚えていると、不意に背中が壁にぶつかった。
さすがに不穏な気配を感じ取って、慌てて駆け出す。
だが、男を追い抜いた途端、急に後ろから抱き付かれた。
開いて無防備になっていたベストの隙間から、アンダーの中に手を差し込まれて体が硬直する。
更に耳の裏を舐め上げられて、ひっ、と小さな悲鳴を上げてしまった。
「なっ、なんですかっ、やめてくださいっ」
「なに? こういう無理やり系のシチュエーションが好きなの?」
意味のわからない事を言われて余計に混乱する。
それでも腕を動かしたり腰をひねったりして、男の腕から逃れようと必死に抵抗した。
でも、なかなか振りほどけない。
こんな時に中忍と特別上忍の差を突き付けられて、悔し涙まで浮かんでくる。
たった一度ではあっても、カカシに愛された記憶が刻まれたこの体を、よく知りもしない男の手なんかに上書きされたくなんてないのに。
不安に膝を震わせながらも、その気持ちだけで頑なに抵抗を続けていると、唐突に出入口のほうから、恐ろしいほど禍々しい空気が流れ込んできた。
ただならぬ気配に面食らったのか、途端に男の拘束が緩む。
せっかくの逃げ出すチャンスなのに、イルカもその空気に圧倒されてしまって立ち竦む事しか出来なかった。
「…本気で嫌がってるかどうかもわかんないわけ?」
禍々しい空気の発生源が現れ、放つ気配とは対照的に淡々と口を開いた。
どうしてこんな所にカカシがいるのだろう。
偶然通り掛かったのだろうか。
「そんな事あるわけないよね。わかっててやってるんでしょ」
男の腕が震えながらイルカから離れていく。
「い、いやぁ…全然気付かなかったなぁ…本気で嫌がってたの? ご、ごめんね」
可哀想なほど声を震わせて言った男が、走り方を忘れてしまったかのようなぎこちない足取りで、焦ったようにトイレを出て行った。
男の気配が遠ざかるに連れて、カカシの禍々しい空気が薄れていく。
「…あんた知らないの? ここがヤりたい奴かヤられたい奴が集まる場所だって」
その言葉に、びくん、と体が強張った。
カカシが、はぁ、とうんざりしたような大きな溜め息をついた。
答えるまでもなく、イルカの様子で返事がわかったのだろう。
無知なイルカに心底呆れているカカシを見て、また嫌われた、と思った。
昨日から緩みっぱなしの涙腺から、簡単に涙が込み上げてくる。
こんな所で泣いたりしたら、もっと呆れられてしまう。
体はがちがちに強張っていたけれど、なんとか俯いてカカシから顔を隠した。
「すみません…」
今はそれを言うのが精一杯だった。
本当は、助けてもらったお礼も、昨日のお礼も伝えたいのに。
そこでカカシが動く気配がした。
もう行ってしまうのか。
お礼の一つも言えないくせに、そんな自分勝手な寂しさが胸に広がった。
「…いつまで突っ立ってる気? ほら、早く行くよ」
不意に、ぐい、と手を引っ張られた。
強張っていた足がもつれて、転びそうになる。
だが、その体をカカシが瞬時に抱きとめてくれた。
驚きに目を見開く。
息が止まりそうだった。
だって、昨日はするりと避けられてしまったのだ。
痛いほど込み上げてくる喜びを噛みころしながら、そっと瞼を閉じた。
移り香ではない匂いを纏った本物のカカシとの接触に、ずっとこのままでいられたらいいのに、と願わずにはいられなかった。






map  ss top  count index  back  next
2013.01.30