「…ひとりで歩けないの」
淡々とした口調でカカシに咎められた。
ばっ、とすぐに体を離す。
カカシに振り払われなかったから、つい身を任せてしまった。
「すみません…」
気まずさと気恥ずかしさから目を伏せる。
そこで再び、ぐい、と手を引かれた。
カカシとのふれあいで、すっかり強張りが解けていて、今度は足がもつれる事はなかった。
手を引かれたままトイレを後にして、カカシの少し後ろに付いて行く。
「あのっ…、ありがとうございました。助けて下さって…」
カカシは無反応だった。
ただ、ずんずんと歩みを進めていく。
でも、胸が痛くなるような言葉が返ってこなかっただけも良かったような気がした。
「昨日も…帰りに忍犬を付けて下さってありがとうございます…」
やっぱり反応はない。
二度続けて聞き流されると、さすがにちょっとがっかりする。
僅かに顔を俯かせると、ふとイルカを掴んでいないほうのカカシの手元が目に入った。
さっきまでイルカが飲んでいた水のボトルを持っている。
持って来てくれたのか。
それだけの事で嬉しくなるのだから、自分はそうとう単純な人間なのだろう。
「…あんた、隙が多すぎる」
ちらりともこちらを振り返らずに、突然カカシが独り言のように呟いた。
間もなくして裏庭を出て、すぐにカカシの手が離れていってしまう。
だが、そこでようやくカカシがイルカのほうを向いてくれた。
「はい、これ」
カカシが持っていてくれた水のボトルを手渡される。
それと一緒に、なぜか茶色い小瓶も手渡された。
何だろうと思ってよく見てみると、瓶はイルカも知っている二日酔い用のドリンク剤だった。
もしかして、カカシはこれをイルカに渡すために裏庭に来てくれたのだろうか。
ふわ、と胸の中があたたかくなって、久しぶりに自然な笑みが込み上げてくる。
「ありがとうございます」
一瞬だけカカシと目が合ったけれど、すぐに逸らされてしまった。
でも、それでも別に構わなかった。
さっきまでは、もうカカシの事は諦めたほうがいいのかもしれない、と思っていたけれど。
でも今は、まだ頑張ってみよう、という気持ちで胸がいっぱいになっていた。
「カカシ先輩! こんな所で何やってるんですか、探しましたよ」
ヤマトが不意に音もなく現れた。
カカシを不満げに見つめている。
その視線が、ふらりとイルカのほうへ流れてきた。
「あ。今日はイルカ先生、ベストの前を開けてるんですね。なんか新鮮です」
「そ、そうですか…?」
ヤマトの指摘を笑って誤魔化しながら、慌ててジッパーを閉じる。
「そういえば、昨日は無事に帰れましたか? お宅までお送り出来なくてすみませんでした」
「お前、オレに話があるから探してたんでしょ」
そう言って、カカシがヤマトの襟元に指を引っ掛けた。
そのままヤマトを引きずって行く。
「い、イルカ先生っ、今度また飲みに行きましょうっ」
焦ったようなヤマトの声が、ものすごい勢いで遠ざかって行った。



カカシの記憶が戻るように、何かイルカに出来る事はないだろうか。
仕事の傍ら、そんな事を考えていた。
回復するかどうかもわからないのに、時間が癒してくれるのを待つだけ、というのはもどかしい。
二人で一緒に過ごした場所に連れて行くのはどうだろう。
だが、その案は閃いた直後に却下した。
どうやってもカカシの同意を得られそうにない。
では、カカシにイルカの手料理を食べてもらう、というのはどうだろう。
カカシにイルカの家まで来てもらう事は難しそうだけど、作った料理を持って行く事は容易い。
それならいけるかもしれない。
少し調べると、今夜はカカシに任務は入っておらず、里にいるようだという事もわかった。
残業を最小限に切り上げて、さっそく商店街へと向かった。
献立は簡単に決まった。
カカシの好物はよく知っている。
皿にラップを掛けて運ぶわけにはいかないから、弁当箱に詰めて持って行こう。
汁物をこぼさずに運べる容器を持っていなかったので、食材と併せて購入して、急いで家に帰った。
焼き魚は弁当には不向きかもしれない、とか。
カカシが外で夕食を済ませていたら明日の朝食にでも食べてもらおう、とか。
そんな事を思いながら支度をして、片手には弁当箱を包んだ風呂敷を、もう片方の手には汁物容器の把手を握ってカカシの家へと向かった。
自分の食事は後回しだ。
それでも、昨日の沈んだ気持ちが嘘だったかのようにうきうきしている。
たぶん、昼休みにカカシがくれた薬のおかげだ。
心地良い空腹を覚え始めた頃にカカシの家に着いたものの、まだ家主は不在だった。
合鍵はもらっている。
でも、勝手に入ったら不審に思われるだろうから、家の前で待つしかない。
ここまで来て、カカシに会わずに弁当だけ置いて帰るのは嫌だ。
少し肌寒くなってきたけれど、そのままじっと待っていたら、しばらくしてようやくカカシが帰って来た。
意外だったのは、カカシが一人ではなかった事だ。
隣にシズネを連れている。
カカシは、シズネを自宅に招くほど親しかったのだろうか。
何かが胸に引っ掛かった。
でも、それには気付かないふりをして、にこやかに声を掛ける。
「お疲れさまです」
イルカが言うと、シズネはすぐに同じ挨拶を返してくれたけれど、カカシは黙ったままだった。
「カカシさん、私、出直したほうがいいですか?」
シズネがカカシに尋ねたが、それにもカカシは曖昧に首を振っただけだった。
どこか戸惑ったように目を泳がせながら、カカシが慌ただしくドアの鍵を開けようとしている。
「なんか用? 家まで押し掛けてくるなんて、すごい迷惑なんだけど。あんたストーカー?」
カカシの言葉が、ずしん、と胸に突き刺さった。
眉間に皺が寄ってしまいそうなるのをぐっとこらえて、風呂敷と汁物容器をカカシに差し出す。
「これ…、作ったので良かった食べ…」
そこでカカシが少し乱暴にドアを開けた。
ちょうどそのドアがイルカの手にぶつかる。
「あ」
風呂敷と汁物容器を、思わず取り落としてしまった。
ごと、という鈍い音がした。
落ちた衝撃で風呂敷の隙間から飛び出した弁当箱の蓋がずれ、さんまの塩焼きを主菜とした数種類の和惣菜が通路に散らばる。
その瞬間はおそらく、3人とも同じ一点を見つめていた。
直前までは食べ物だった残骸で汚れた、通路の一点を。
すっ、と急激に体温が下がるのが、自分でもわかった。
やりきれない思いが、凄まじい勢いでイルカの胸に押し寄せてくる。
心の中が一瞬でどす黒い色に塗りつぶされた。
今度は眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。
視界が涙で滲む。
ほんの少しの振動でも溢れてしまいそうな水分が、あっという間にイルカの瞳に溜まった。
カカシもシズネも、凍りついたように動かない。
作った者の責任として、ここは自分が真っ先に動いて片付けなくてはいけないと思って、咄嗟にその場に屈み込んだ。
風呂敷の結び目を解いて広げ、布の上に手のひらで残骸を掻き集める。
あまりの惨めさに、何も言葉が出てこなかった。
汚れた手を風呂敷で軽く拭って、再び四隅を結ぶ。
その時、ぱた、ぱた、と微かな音を立てて、イルカの目から水分が零れ落ちた。
涙をこらえようとすると眉間に皺が寄ってしまうから、顔は上げられそうにない。
それでも、口元だけには薄っすらと笑みを浮かべて立ち上がった。
「…すみません。お邪魔しました。失礼します」
風呂敷の結び目をぎゅうっと握って、イルカはその場から逃げるように走り出した。






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2013.02.27