ただひたすら、やみくもに突っ走った。
その途中で通り掛かった公園に立ち寄り、弁当箱を風呂敷ごとゴミ箱に放り込んだ。
横にあった水道で手を洗う。
そこでふと、茄子のみそ汁を入れた容器をカカシの家に置き忘れてきてしまった事に気が付いた。
ストーカー男が残していった面倒事でも、カカシだって処分ぐらいはしてくれるだろう。
中身だけをトイレに流してくれてもいいし、蓋を開けずに捨ててくれたって構わない。
そんな投げやりな事を思いながら公園を出た。
酔っているわけでもないのに足元がふらつく。
やっぱり、カカシの事は諦めるべきなのだろうか。
たかが弁当ひとつでそこまで考えるのは安易かもしれない。
でも、まさか弁当を受け取ってもらえない事があるなんて、考えもしなかったのだ。
何の変哲もない自己流の味付けだったけれど、カカシはイルカが作った料理をいつも嬉しそうに頬張ってくれていたから。
ぐちゃぐちゃになった惣菜の姿が蘇ってきて、また胸がずきずきと疼き出した。
ほぼ同時に浮かんできた涙を袖で拭う。
何度か折れて短くなっていた心の芯が、また更に短くなってしまったような気がする。
たぶん、あの場にシズネがいた事がイルカに追い討ちを掛けた。
カカシがシズネを自宅に招くほど親しかったなんて、全然知らなかったのだ。
イルカの事を忘れてから急接近したのだろうか。
それとも、イルカの事を忘れる前から深い仲だったのだろうか。
今までは、カカシの浮気を疑う事も、新しい恋人候補の存在に気を揉む事もなかったけれど、それはただ自分がのんきなだけだったのかもしれない。
上忍のくの一なら、必ずイルカよりも遥かに巧みな閨術を心得ている。
ぐす、と情けない音を立てて鼻を啜った。
重い足を引きずって、薄暗い夜道をとぼとぼと家に向かって歩いて行く。
近道を使うとカカシの家のそばを通らなくてはいけないから、少し遠回りになる道を選んだ。
前を向こうとしていても、気付けば視線が下を向いている。
「イルカ先生!」
不意の呼び掛けに顔を上げた。
道のだいぶ先のほうからヤマトが駆け寄って来る。
そして、息を乱す事もなくイルカの前で立ち止まった。
ヤマトの黒っぽい目が、なぜか嬉しそうに輝いている。
「奇遇ですね! イルカ先生に会えるなんて今夜は運がいいな。僕の家、その丘の上なんですけど、これから先輩の所に行こうと…」
ほくほくと矢継ぎ早に話していたヤマトが、唐突に口を噤んだ。
「何か、あったんですか」
ヤマトの声の調子が急に低く重たいものに変わる。
真剣みを帯びた黒目に、じっと見つめられた。
打ちひしがれた内心を見透かされそうで、思わず目を伏せる。
「先輩と、何かあったんですか」
核心を突かれて、咄嗟に唇を引き結んだ。
それを取り繕おうとして、微かに口元を震わせながら必死に口角を上げる。
「…何でもありません。すいません、じゃあ俺もう失礼します」
軽く会釈をしてヤマトを追い越す。
すぐに気持ちが顔に出てしまうこの体質を、直せるものならば直したかった。
少しでもヤマトから距離を取ろうとして足を速める。
「…僕でよかったら話を聞かせてくれませんか」
離れたつもりだったけれど、ヤマトはイルカの横にぴったりと付いて来ていた。
「家まで送りますから、そのあいだだけでも。何でも相談に乗るって言ったじゃないですか」
昨日の頼もしい言葉を繰り返されて、つい歩調を緩めてしまう。
だって、ひとりで抱え込むには重すぎる事ばかりなのだ。
ぽつり、ぽつり、とカカシの家で起きた事をヤマトに白状する。
「…完全に裏目に出ましたね」
「そう、ですよね…。やっぱり俺のやり方がまずかったんですよね…」
「あっ、そうじゃなくてっ、裏目に出てるのは先輩のほう…っ、あっ、いえっ…、い、イルカ先生は何も悪い事なんてしてないじゃないですか。先輩のために頑張っていて」
聞こえのいいヤマトの言葉に、更なる弱音を零したくなってしまう。
「でも…もう俺カカシさんの事は諦めたほうがいいんじゃないかと思っていて」
イルカがそう言ったら、ヤマトなら励ましてくれるかもしれない、と心のどこかで思っていた。
でも、誰かに励まされたいという事は、まだカカシを諦めたくないという事でもある。
その答えに辿り着いた所で家に着いた。
見失っていた気持ちを見つけられたような気はするけれど、不安は数えきれないほど立ちはだかっている。
まだまだトンネルは長そうだな、と思いながらドアの鍵を開けた。
「ありがとうございます。ヤマトさんに話したら、少しすっきりしました」
「…そうです、そんな酷い事する人なんて早く見切りを付けたほうがいいです」
「え…?」
思わず聞き返していた。
自分の耳を疑う。
気遣い屋のヤマトから出た思いがけない言葉が、瞬時には飲み込めなかった。
ドアノブを握っていたイルカの手に、不意にヤマトの手が重なる。
「僕にしませんか。僕だったら先輩みたいな酷い事は絶対にしません」
「ヤマト、さん…?」
ヤマトがイルカの手ごとドアノブを捻った。
僅かに開いたドアの隙間から、狭い玄関に押し込まれる。
「イルカ先生、先輩とのエッチの事すごく気にしてたじゃないですか。最初は僕のこと、ただの練習台だと思ってくれていいですから」
言われた言葉の意味を頭の中で整理しているあいだに、ヤマトが後ろ手にドアを閉めた。
部屋の中は真っ暗だ。
でも、夜目の利く忍にそんな事は関係ない。
「一度試してみたら、気持ちだって変わるかもしれない」
緊張したような硬い声でヤマトに耳元で囁かれた。
その声からヤマトの本気を悟った途端、玄関にやんわりと押し倒された。


               * * * * *


カカシはイルカが走り去って行った方向を呆然と見つめていた。
わざわざ作ってくれた料理を拒むつもりなんて全然なかった。
泣かせるつもりなんて、もっとなかった。
自分はただ、自宅にシズネを呼んだ所をイルカに見られて焦っていただけなのだ。
悪態をついたのも、気まずさを取り繕うためだった。
イルカが絡むと、いつも余計な事を言ってしまう。
昨日初めて受付で顔を見た時からそうだった。
眩しいぐらいの笑顔を周囲に振り撒いているイルカにイライラして、柄にもなく八つ当たりをした。
あの時は、どうしてそんなもったいない事をするのだ、と憤っていただけなのに。
イルカには、カカシがあんな嫌味を言った理由はわからなかっただろう。
とても困惑していた。
それに、とても傷付いたような顔をしていた。
初対面の上忍に嫌な事を言われたのだから当然だろう。
カカシだって、待機所でヤマトに聞くまで名前も知らなかった相手に、あそこまで感情を揺さぶられたのは初めてで戸惑っていた。
しかも、その戸惑いはイルカが待機所にヤマトを迎えに来た時に、更に激しさを増した。
平静を装う事も出来ず、どうしてイルカが迎えに来たのが自分ではないのだ、とまったく筋違いな事を思っていた。
「カカシさん、どうしますか」
シズネの声に、はっとする。
今日シズネにわざわざ家まで来てもらったのは、記憶回復術の手ほどきを受けるためだった。
綱手に相談しても経過観察の一点張りで治療への積極性を感じないので、綱手に次ぐ医療忍であるシズネに協力を求めたのだ。
シズネに相談している所をヤマトに見られたので、綱手に報告されるかもしれないと警戒していたのだが、特にお咎めはなかった。
カカシの記憶に関して、綱手とヤマトはどこか言動が怪しい。
裏で結託しているような気がしてならない。
だからシズネには待機所や医療棟などの公共の施設ではなく、自宅まで来てもらったのだ。
「…今日はもうやめておきましょうか」
シズネがドア前の通路に視線を落として呟いた。
そこは、イルカが作ってくれたものが飛び出した辺りだった。
今は何の痕跡もない。
ごはんの粒一つだって落ちていない。
でも、その光景は未だにカカシの網膜にくっきりと焼きついていた。
旨そうな焼き目の付いた秋刀魚、煮しめ、白和え、卵焼き。
偶然にも、カカシの好物ばかりだった。
昼間から本調子ではなさそうだったイルカが、あれだけの品数を仕事のあとに弁当箱に詰めて持って来てくれたというのに。
そんなイルカに、自分は一体何をした。
イルカの善意に対して、自分は一体何を返した。
あまりのふがいなさに、カカシはその場に立ち尽くす事しか出来なかった。






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2013.03.30