翌朝は誰よりも早く起きた。
廊下や非常通路、ホテルの周辺まで、対象が使う部分を隅々まで見回る。
特に異常はなかった。
部屋に戻ると、イルカが起き出していた。
キッチンでコーヒーを淹れている。
浴衣の後ろ姿を当然のように見つめてしまいそうになり、強制的に目を逸らした。
平常心、という言葉を頭に焼きつける。
奥のスタッフルームからも物音がしていた。
ヤマトも起きているのだろう。
「おはようございます」
挨拶をすると、イルカがコーヒーカップに視線を落とした。
目を逸らされただけで胸が、ちく、とした。
「…おはようございます。早いですね。お戻りは、あと1時間くらい遅くても大丈夫ですよ」
イルカの穏やかな口調に、体が直立して固まった。
今、女の所から帰ってきたと思われた。
夜は部屋にいたのに。
でも、そんな事をイルカが知るはずもない。
「昨晩は申し訳ありませんでした」
イルカに向かって上半身を90度倒して、深く頭を下げる。
「職務放棄になると気づいて、あれからずっと部屋にいました。今は朝の警ら帰りです」
信じてもらえるかはわからない。
証拠はない。
証言者もいない。
「…お疲れ様です。コーヒー、はたけさんも飲みますか」
はたけさん。
最初と同じ穏やかな口調が、ずっしりと胸にのしかかってくる。
呼び方が変わると、こんなにも突き放された気分になるのか。
しかも、お疲れ様って。
遊んで帰ってきた事への皮肉か、警ら帰りへのねぎらいか。
もし皮肉だったら、警らと嘘をついた、と思われているという事でもある。
ぐっ、と唇を引き結んだ。
こういう時は自分にとって都合の悪いほうが相手の真意だ、と認識しておいたほうがいい。
一度失った信頼を取り戻す事は容易ではないのだ。
わかっている。
悪いのは自分だ。
ゼロより下からでも、少しずつ積み上げていくしかない。
ゆっくりと、頭を上げた。
「いただきます」
虫がよすぎると思いながらも、昨日の事も、今の事も、何もなかった平坦な声で応じた。
間もなくして、カウンターの上に湯気の上がるカップを置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
イルカはダイニングテーブルで新聞を読み始めた。
自分はソファーに移り、ニュース番組を聞きながら、今日の護衛プランを立てていく。
そのうちにヤマトが出てきた。
「イルカ先生、ピーナッツバターとクリームチーズ、どっちにしますか」
「朝ごはん、作ってくれるんですか」
「またしばらく、朝は離ればなれですからね」
「じゃあ今日はクリームチーズで」
「了解です」
まだ役割が固定されていない新婚夫婦のような会話に、もやもやが募ってくる。
小さく深呼吸をした。
こんな事で心を乱されてはいけない。
ヤマトと自分では、イルカと出会ってからの日数が大きく違うのだ。
親しみの度合いで敵うわけがない。
「カカシ先輩もしばらくここで暮らすんですから、少しは家事もしてくださいね」
「了解」
「あと、今日からは先輩が子どもたちを寝かしつけてください」
「え、そうなの?」
「僕の本業は秘書ですから。護衛がいるなら本業に専念します。家にも帰りたいし、毎晩は泊まれません」
「シッターかヘルパーは?」
「信頼できる人なんて、そんなにたくさんいないんですよ。先輩なら護衛もできるし、他を任せても安心ですから」
生活を共にすれば、イルカの信頼を回復する機会も増えるだろう。
そこにヤマトはいないほうがいい。
くだらない妬みを抱かずに済む。
「先輩、7時半頃には子どもたちを起こしてください」
「了解」
今日の出発予定は8時15分。
ヤマトの車に3人を乗せ、子どもたちを学校に送ってから、イルカの現場に向かう。
自分は別の車で同行する。
言われていた時間になると、子どもたちを起こしに主寝室へと入った。
大きめのベッドが3つ並んでいる。
中央があいているのでイルカが使っていたのだろう。
いかがわしい想像がよぎる前に、厚手の遮光カーテンを勢いよく開ける。
ひとりずつ揺り起こせば、2人とも意外なほど寝起きがよかった。
眠そうにしながらも、自ら顔を洗いに行き、朝食を摂っている。
躾が行き届いている。
イルカは洗濯と乾燥を朝までに終えていた衣類を、ウォークインクローゼットに片付けていた。
食器類は水に浸けてから、ヤマトが食洗器に移している。
それぞれの日常の流れが、段々と掴めてきた。
この状態を、護衛をしながらできるだけ崩さないように努めたらいいのだろう。
イルカが一足先に身支度を整えて、クローゼットから出てきた。
すでにネクタイまで締めていて、結び目もきちんと左右対称になっている。
服装が変わるだけで、若いながらも政治家としての風格が表れていた。
「イルカ先生、ネクタイが」
ヤマトがささっと駆け寄った。
完璧だったネクタイの結び目に触れている。
2人の顔が近い。
近すぎるだろ。
「いつもすいません。ちゃんとしているつもりなんですけど」
ヤマトがイルカのシャツとジャケットの襟を整えるように撫でてから、OKです、と呟いた。
今の、いる?
しかも「いつも」って。
イラっとした疑問が湧いてきたけれど、のどの奥に押し込んだ。
イルカはヤマトをなんとも思っていないから、あそこまで距離を詰められても平気なのだ。
そう言い聞かせてみるものの、なかなか心は穏やかにならない。
「やばっ、もうすぐ朝ドラ始まっちまうってばよ」
急に子どもたちがバタバタし始めた。



午前中は勉強会と委員会、午後からは本会議。
夕方には市民ホールに移動して、講演会でシークレットのゲスト出演。
この講演会は、3日前に急遽イルカの参加が決まったそうだ。
自分は本会議場を途中で離れて、早めにホールへ向かった。
建物の外周、施設内、控え室など、イルカが関わりそうなエリアを隅々まで確認する。
今の所、不審な点はない。
控え室に戻ると、ヤマトが到着していた。
届きもの関係を手際よく捌いている。
「イルカさんは?」
「スタッフの案内で会場の下見に行っています」
カカシを一瞥もせず作業をしていたヤマトの手が、ふいに止まった。
三つ折りの紙を広げて、印刷された文字を見せてくる。
『いつでもどこでも あなたを見ている あなたの事を考えている』
『あなたも いつでもどこでも 私を見て 私の事を考えて』
これか。
粘着質で、陰気で、タチが悪い。
「安定のキモさでしょう。こんなのイルカ先生には見せられませんよ」
「警備って強化してもらえるの? 入場者のチェックとか」
参加者の中に犯人が潜んでいてもおかしくはない。
運営スタッフや出演者も含めて。
「確認してみます」
犯人はどうやって、この場所、この日時に、イルカが来る情報を得たのだろう。
参加が決まってから今日までの短いあいだに、イルカのスケジュールを把握できる人物は少ない。
「1割ほど人員を増やせるそうです」
応急ではその程度が限界だろう。
いないよりはいい。
一旦電話を切ったヤマトは、またすぐに別の電話をかけている。
その電話もすぐに切った。
「警察に手紙の鑑定を依頼しました。手紙の内容、イルカ先生には黙っておいてください」
「了解」
ここで昨日のような爆発が起きたら、通路が狭い分、被害はさらに大きくなる。
もう一度、避難経路を確認しておく事にした。
どんな状況でもイルカを守れるように。






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2021.02.13