予定通り、イルカは講演の中頃で呼ばれた。
付き添っていた舞台袖で見送り、客席にも舞台裏にも素早く目を配る。
不審な動きをする者はいない。
客席の一角に向かって、イルカが小さく会釈をした。
イルカの視線の先で、白髪を肩まで伸ばした高齢の男性が、軽く会釈を返したように見えた。
知り合いだろうか。
あやしいそぶりは特にない。
イルカの講話が始まった。
教育について活き活きと語る姿に、誰もが聞き入っている。
情熱的で、でも爽やかで、こちらまで仕事を忘れて引き込まれそうになる。
最後はきれいに話をまとめて、イルカは時間通りに戻ってきた。
そのまま控え室へと付き添っていく。
「お疲れ様でした。これ、明日の勉強会の追加資料です」
「ありがとうございます」
部屋に入るなり、ヤマトがイルカに書類の束を渡した。
「先輩はそろそろナルトと木ノ葉丸を迎えに行ってもらえますか」
「え、護衛は」
「あとは事務所で明日の委員会の打ち合わせをするだけなので」
「護衛はいるでしょ」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、打ち合わせが終わったら合流するよ。何時?」
「打ち合わせは1、2時間ですけど、そのあとイルカ先生は21時まで私用が入ってますので、本当に大丈夫です」
「いや、付いてたほうがいいでしょ」
「大丈夫です」
頑なだ。
そばにいないと、何かあった時に守れないじゃないか。
そうなったら、自分が雇われている意味がない。
ヤマトだって、対象の単独行動は慎むべきだとわかっているはずだ。
「私用って? 終わったら行くよ?」
「護衛は不要です。終わったらイルカ先生からの帰るコールがありますが、迎えはいりません」
「だから、私用って何」
「とにかく先輩は、子どもたちの食事、入浴、寝かしつけをお願いします」
イルカは黙って頷いている。
ヤマトの方針に異論がないという事なのだろう。
2人の共通認識に、自分だけが取り残されている。



早々に子どもたちを寝かしつけ、21時前から携帯電話を見つめて待機していた。
イルカから連絡が来たら、すぐに反応できるように。
食事中に子どもたちから聞き出そうとしたけれど、何も知らないようだった。
子どもたちにとっては、一緒でない時のイルカの行動は、すべて「お仕事」なのだそうだ。
でもヤマトは、はっきりと「私用」と言った。
気になるじゃないか。
何も教えてくれないのが、いかにもあやしい。
デートじゃないのか。
既婚とは聞いていないけれど、恋人がいるのだろうか。
それとも恋人にしたい相手だろうか。
こちらだってプロなのだから、そういう状況での礼儀はわきまえて護衛するのに。
21時を5分すぎ、10分がすぎようとしていた頃、電話が鳴った。
ヤマトからだった。
「イルカ先生から連絡ありましたか」
早口で、どこか焦った様子だった。
何かあったのだろうか。
頭と体が、瞬時に仕事モードに切り替わる。
「ないけど」
「いつもなら、とっくに連絡がある時間なんです。こちらからかけても繋がらなくて」
だから何度も言ったじゃないか。
こういう事が起こるのだ。
やはり護衛は必要だったのだ。
「先輩からも連絡してみてもらえますか」
「了解。警察は?」
体が勝手に動いていて、イルカを探しに部屋を出ようとしていて、はっとする。
子どもたちだけを残していくわけにはいかない。
「これから連絡します。僕、イルカ先生が立ち寄りそうな店とか、帰り道とか、心当たりのある場所を辿りながら、そちらへ向かいます。先輩は部屋で子どもたちをお願いします」
イルカ先生を見つけたら連絡します、と言い添えて電話が切れた。
歯痒い。
今すぐイルカを探しに行きたい。
誘拐か、トラブルに巻き込まれたか、ただ連絡を忘れているだけなのか。
あらゆるパターンを想定しながら、イルカに電話をかける。
だが、電源が切れているか、電波の入らない所にいるか、とのアナウンスしか聞こえない。
今どこですか、連絡をください、と短いメッセージを立て続けに送る。
その旨をすぐにヤマトに伝えると「警察が都内全域に緊急配備をかけてくれました」との知らせがあった。
けして大げさな対応だとは思わなかった。
それからも数分おきにヤマトに「見つかった?」と電話やメッセージで確かめる。
返ってくるのは毎回「まだです」だけ。
イルカにも繰り返しメッセージを送るが、返事はない。
既読にもならない。
電話も一向に繋がらない。
気持ちばかりが焦ってくる。
テレビやネットのニュース、SNSを確認していても、イルカの動向は何も反映されない。
イルカ関係で出てくる情報は、ラーメンと温泉が好き、程度だ。
監視カメラをハッキングしてしまおうか。
だとしたら、イルカがどこにいたのかがわからないと話にならない。
せめて、行方不明になる前の行動が知りたい。
どうせ警察には話したのだろう。
だったら、自分にだって教えてくれてもいいじゃないか。
良策も朗報もなく、時間だけが過ぎていく。
このあいだにも、イルカがストーカーに痛めつけられているか、辱められているかもしれないのに。
自分の無力さに唸り声を上げそうになる。
そのとき突然、部屋の鍵が開く音がした。
イルカが帰ってきたのかもしれない。
玄関へ走る。
ドアの隙間から顔を出したのは、しかし、ヤマトだった。
「お前かよ」
「帰ってきてませんか…」
「ないよ。私用ってなんだったの。イルカさん、21時まで何してたの。どこにいたの。誰といたの」
ヤマトが静かにドアを閉めた。
キッチンへ行って、水を飲んでいる。
「他言しないと約束しているんです。こういう事は人に言うものじゃないからって、イルカ先生が」
週刊誌をにぎわせる「熱愛」の2文字が頭をよぎった。
世間に隠す事なんて、それくらいだろう。
やはり、いたのだ。
口元が歪みそうになる。
眉間に感情が出ないように集中すると、目元が細まって鋭くなってしまう。
わかっているのに、直せない。
「僕は堂々と公表してもいいと思うんですけど、イルカ先生は恥ずかしさもあるみたいで」
こぶしを握って、歯ぎしりを噛みころす。
もう答えはわかっているのも同然なのだから、もったいぶらないでくれ。
イライラする。
これ以上焦らされたら、ヤマトの胸倉を掴んでしまう。
「でも、今回は例外ですよね。イルカ先生、ボランティアで無料塾の講師をしているんです」
「…な、っ…は、ぁあ? ぜっ、全然っ、恥ずかしい事じゃないじゃないっ…!」
「いい人ぶってるみたいで、って事らしいです。ぶってるんじゃなくて、本物のいい人なのに」
張りつめていた感情のやり場がなかった。
よかったのに、安心したはずなのに、そんなに急には気持ちの整理がつかない。
たまりかねて、水きり網に伏せていたサラダボウルを乱暴に掴んだ。
なみなみに水を汲み、やけ酒代わりに思い切り呷る。
「…先、輩…?」
訝る後輩を睨んで水を飲み干すと、ふぅ、と小さく息をついた。
「…これから探してくる」
「いえ、もう一度僕が…」
「オレが行く。別の人間のほうが新鮮な目で見られるでしょ」
わざと威圧的な声を出した。
そうすればヤマトは逆らわないとわかっているから。
だって嘘ではないのだ。
自分が動くための大義名分ではあるけれど。
「対象の移動経路は」
「…帰りはいつも電車と徒歩です。塾の最寄駅は…」
教えられたのは、都営地下鉄線の駅名だった。
出口が面している大通りには、駅名と同じ名前の高速道路インターチェンジもある。
車と電車、どちらで移動したほうが使い勝手がいいだろう。
「塾周辺と、このホテル周辺にある書店、ファミレス、コンビニは回りました」
了解、と応じながら、腰のポケットを探る。
車の鍵がある事を確かめると、部屋を飛び出した。






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2021.03.06