塾のあと、いつも通りに帰っているつもりだった。
でも気がついたら、上に高速道路が走る大通りをだいぶ長く歩いていたようだった。
ようやく1日のスケジュールを消化して、ぼんやりしていた。
理由はわかっている。
昨日の夜の、好きかも、と思った直後の失恋だ。
唐突だったせいか、自分でも驚くほどに動揺していた。
できるだけ悟られないようにしたつもりだったけれど、カカシには伝わっていたのだろう。
朝、あんなに丁寧に頭を下げられてしまった。
夜のプライベートな時間まで拘束して、申し訳ない事をしたのはこちらのほうなのに。
1日中むさ苦しい男たちに囲まれていたら、夜くらい女の人と息抜きをしたくもなるだろう。
真摯なカカシの姿に、さらに気持ちを募らせてしまいそうだった。
寝ぼけた頭でも、それはいけない、と自制心が働いて、呼び方を改めた事はよかったと思う。
でも、お疲れ様のひと言で話を有耶無耶にしてしまったのはよくなかった。
余計に嫌われたかもしれない。
予定をキャンセルさせてしまった事と併せて、帰ったらきちんと謝ろう。
幸い、歩いていた方向は間違ってはいない。
このまま行くか、途中で電車に乗るか。
そういえば、この辺りに前々から気になっていたラーメン屋さんがあったような。
ヤマトに車で塾まで送ってもらう時、いつも通りかかるたびに心惹かれていたのだ。
今日は食欲がなくて昼を抜いてしまったけれど、好物ならいける気がする。
信号を2つ通過した辺りで、威勢のいい黄色いひさしが見えてきた。
朱色の提灯も夜道にきらめいている。
こなれた佇まいに、どきどきしながら暖簾をくぐった。
15席程度のコの字型のカウンターには、先客がまばらに座っている。
食券を買い、空席が並ぶ一角に腰を下ろした。
業務用換気扇の唸るような音を聞きながら、オプションのメニュー表を眺める。
その時ふいに、むぎゅ、と両頬を挟まれて押さえられた。
強引に横を向かされる。
そこには、真顔のカカシが立っていた。
頬を挟まれた圧で、唇が嘴みたいに尖っている変な顔を、じっと見つめられる。
なに、なに、なに、なんで、なんで、なんで。
恥ずかしくて、かぁー、と首から上に熱が集まってくる。
「…お怪我は、ありませんか」
「け、が…? しゅてましぇん…けど…」
喋り方まで変になって「してません」がうまく言えなかった。
唐突に離された途端、カカシが携帯電話を取り出した。
「対象発見、確保。外傷なし、緊急配備解除して」
通話を終えると、カカシが店内をうろうろとし始めた。
壁、床、天井など、隅から隅まで目を配っている。
ひと周りすると、イルカの後ろで足を止めた。
ただ静かに控えている。
それがカカシの仕事なのはわかるけれど、店の中ではとても不自然で、目立っている。
「…ご注文は?」
店員がカカシを訝しむように尋ねた。
「オレンジジュースを」
「うち、オレンジジュース置いてないんですよ。ラーメン屋なんで」
カカシがイルカの席に置いてある食券の半券に視線を落とした。
「同じものを」
「あちらの精算機からお願いします」
すぐにカカシがイルカと同じ食券を買った。
店員に「おかけになってお待ちください」と促され、イルカの左隣にやって来た。
「何か…あったんですか、子どもたちは…」
「子どもたちは大丈夫です。あなたを探していました。定時連絡がなかったので」
「えっ」
慌てて携帯電話を出した。
電源が切れたままになっている。
授業が始まる前に切って、いつもなら終わってすぐに電源を入れて連絡をするのに。
「すいませんでしたっ」
起動させると、おびただしい数のメッセージと着信が表示された。
やってしまった。
また嫌われてしまう。
「申し訳ないです…。ご迷惑をおかけして…」
こんなミスは初めてだ。
昨夜の事が、ここまで尾を引くなんて。
「いいんです。あなたが無事なら、それで」
ぽっ、と頬が熱を持った。
優しい。
優しすぎる。
もっと怒ってもいい所だろう。
少なくても、注意くらいはしてもいいはずだ。
あっ、と気がついた。
カカシにとっては「仕事」でしかないのだ。
いけ好かない相手でも依頼人が無事なら、あとはどうでもいい、という意味の「いいんです」なのだ。
口調も、感情の読めない突き放すようなものだった。
優しさとは関係がない。
当然だ。
カカシは仕事に私情を挟んだりはしない。
だからといって、何をしても許されるわけではないだろう。
表に出さないだけで、カカシにも感情があるのだ。
「最低限の連絡も忘れるような奴まで守らなきゃいけないなんて、嫌になりますよね。すいません」
「オレは…どんな人でも命懸けで守ります」
どんな人でも。
目を伏せた。
自分だけが特別になれるなんて思ってはいないけれど。
わかりきった事なのに、どうしていちいち胸が痛むのだろう。
溜め息が出そうになって、慌てて唇を噛んだ。
「多少は…、相手によってモチベーションに差が出る事もありますが…」
カカシが気まずそうに頬を掻いた。
こういう話題でカカシが内情を教えてくれるのは意外だった。
「そうですよね。きれいな女性のそばにいるほうが、仕事も楽しいですよね」
イルカの場合はカカシのモチベーションを下げてしまうほうなのだろう。
でも仕事の質には影響しないから大丈夫、と言いたいのだろう。
「いえ…。性別や外見というより、相性なんだと…」
目の前に、ぱっ、と光明が差した気がした。
相性という基準なら、平均値を越えられるのではないだろうか。
「相性がいいと、息が合うというか。思っている事や考えている事が、言わなくても伝わったり伝わってきたりして」
カカシの言葉に高揚しそうになる。
口に出さなくても、カカシにはこちらの気持ちが通じていると感じる事はよくあった。
「俺との相性はどうですか」
相性がよかったら、護衛対象と長い時間を過ごしても苦ではないのだろうか。
プライベートのように食事をしたり、お茶をしたり、買い物をしたり、映画を観たりしても。
行ってみたい場所に付き添ってもらったりしても。
「…悪くない、と思います」
「このあと2人で出掛けるっていうのは…アリ、ですか。行ってみたい所が…」
勝手に盛り上がっていて、口を滑らせていた。
途中で我に返って噤んだけれど、遅かった。
好意や期待が膨張して、嫌がられているという意識が欠けていた。
まさに護衛中の依頼人から相性を聞かれれば、悪いとは答えられないだろう。
それに昨夜は、カカシの予定を台無しにしてしまったのだ。
今日はその埋め合わせをするほうが優先だろう。
そもそもカカシは仕事上、依頼人といるあいだは緊張感を保っていなければならないのだ。
「すいません、俺といたら気が休まらないですよね。職務放棄だなんて思いませんから、夜はご自由になさってください。昨日は邪魔をしてすみませんでした」
矢継ぎ早に言い切った所で、注文していたラーメンが届いた。
ごく、とのどが鳴りそうになる。
これは絶対にうまいやつだ。
どんぶりを見ただけでわかる。
カカシにはちゃんと謝れたのだからいいじゃないか。
あとはラーメンに集中しよう。
箸を割り、まずはスープを掬った。
うまい。
くどくない濃厚なとんこつと、みそのコク、野菜のうまみが絶妙だ。
中太のストレート麺をすすり始めると、間もなくしてカカシのラーメンも到着した。
2人で黙々と箸を進める。
イルカが最後に冷水を呷っている横で、ちょうどカカシも食べ終えたようだった。
「…行きたい所って、どこですか」
えっ、と思ってコップに口をつけたままカカシを見た。
カカシは相変わらず真顔だった。
雑談、という感じではない。
「さっきの事は忘れてください」
「どこですか。どこへでもお供します」
「え、いえ、俺と行ってもつまらないでしょうし。カカ…、はたけさんのプライベートを侵蝕するつもりは本当にないん…」
「カカシ、と呼んでくれませんか。イルカさん」
芯のあるカカシの声に、かぁー、と体が熱を持った。
いいんですか、と2点確認したい。
一緒に行ってくれても、と。
呼び方を戻しても、と。
だって、2人でわざわざ出掛けるなんて、デートみたいじゃないか。
それに、名前で呼び合っていたら、とても親しい関係みたいだ。
嫌われていると思っていたけれど、そうでもなかったのだろうか。
コップに冷水を注ぎ直した。
熱くなった額に当てる。
「どこでも…付いてきてくれるんですか…。カカシさん、が…」
「もちろんです」
「なんか…、なんか急に…、すごい恥ずかしいんですけど…。すいません…」
呼び方を戻しただけなのに。
カウンターに乗せていた手を、ぎゅ、と握り込む。
その上に、そっとカカシの手が重なった。
どきっ、として、うわぁーっ、と声を上げそうになる。
腰を浮かせたカカシに、軽く手を引かれた。
「行きましょう。ごちそうさま」
「…ごちそう…さま…でした…」
手を繋いだまま、ぽーっとなった状態で店を後にした。






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2021.03.28