ちくしょう。 ずるい。 どんなに心配したか、どれだけ周りが慌てたか、説教くらいしてやるつもりだったのに。 発見したら、ほっとして、抱きしめて無事を確認したくなった。 そんな気持ちを押しころしてイルカの頬を挟めば、時空がゆがむほどかわいい顔が見られて。 こちらの返答を悪いように解釈しては、さびしそうにするから。 柄にもなく、必死にフォローしてしまい。 少し元気になったと思ったら、まだ昨夜の女性との電話を気にしているし。 そこで届いたラーメンを前にしたイルカが、今度は満天の星空よりも目を輝かせたりして。 さすがに反則だろう。 イルカには、かわいさのバリエーションが多すぎて、心を掻き乱されてばかりいる。 ネット情報の「ラーメン好き」も本当だったようだ。 だとしたら「温泉好き」も本当なのだろうか。 温泉なら、むかし父が休日に使っていた伊豆の家にも引いていた。 イルカを連れていったら喜んでくれるだろうか。 いや、それは身勝手すぎる願望か。 慕われている気配はあっても、こんな裏稼業の男と行動を共にするのは、イルカにとってリスクでしかない。 ラーメンを食べ終わってから話を戻せば、コップに口をつけたまま止まったイルカが、またかわいらしくて。 もう、触りたい、抱きしめたい、キスしたい。 いよいよ気持ちが抑えられなくなって、好意を匂わせるような口調で呼称変更を要求してしまった。 手を握るだけにとどめたとはいえ、車に着いた所で離すのが惜しくてたまらなかった。 もう二度と、イルカの肌に触れる機会はないかもしれない。 むしろ、触れないほうがいい。 思い出した時に虚しさを噛みしめる事になる記憶は、増やすべきじゃない。 「…行ってみたい、という事は、まだ行った事はないんですか」 目的地へと車を走らせながら、助手席のイルカに尋ねた。 「はい。知り合いも教育関係者ばかりなせいか、近寄りたがらなくて。ひとりだと、ちょっと怖いし」 「…恋人、とも?」 聞かずにはいられなかった。 諦めが悪い、という自覚はある。 「恥ずかしい話なんですが、大人というか社会人になってからは、まともに付き合った事がなくて。不器用なんで、仕事ばかりになってしまって…」 イルカが語尾を濁した。 私と仕事、どっちが大事? と詰め寄られているイルカの姿が目に浮かんだ。 自分も同様の2択を迫られた経験はある。 今までは、仕事を選ぶに決まっているじゃないか、としか思った事がなかったけれど。 イルカと仕事なら、なんの迷いもなく「イルカのほうが大事」と即答できる。 自分の場合、尋ねられたのは女性だけだったが、イルカの場合はどちらなのだろう。 男か、女か、その両方か。 社会人になってからはまともに付き合った事がない、というのも、いい雰囲気になった相手や一夜限りの相手ならそれなりにいた、という事だろうか。 そして、社会人になる前は、「まとも」に付き合っていた相手がいたのだろうか。 イルカなら、いて当然だけど。 当然なのだけど。 考えただけで、不相応にも腹の奥が沸々としてくる。 過去ではなく現在イルカと過ごしているのは自分なのだ、と無理やり頭を切り替える。 「…そういう場所に、興味があるんですか」 「俺はそれほど。でも、興味を持つ子は多いから、自分も体験してみないと、とは前々から思っていて」 イルカには、骨の髄まで教育者の血が流れている。 その道を穢さないために、自分はイルカに近づきすぎてはいけないのだ。 車で南に30分。 イルカのジャケットは、汚れたりしないように車に置いてきた。 中に揃いのジレを着ていたので、それでもきっちりとした印象に変わりはない。 向かったのは、渋谷の雑居ビルの地下だった。 DJが掻き鳴らす大音量の音楽と。 薄暗い空間で狂ったように回転と点滅を繰り返す光線と。 ステージの上で踊る派手な女性たちと。 客たちの異常な興奮と。 あまり品のいい店ではないけれど、男性客だけでも座れる席があるのでここにした。 人のあいだを縫って、店の奥へと進んでいく。 「どうですか」 「す、すごいですね…」 イルカの声を聞き逃さないように、口元に耳を寄せる。 何かの拍子にキスができる距離。 それを察して、どきりとしてしまう自分が切ない。 仕事中だぞ、と改めて自分を律して、そっと身を引いた。 「音が体に入ってきて…、お腹の中が波打ってる感じがする…」 なんでわざわざエロい言い方をするのだ。 いや、イルカの単なる感想をエロく思ってしまう自分がいけないのだ。 こういう環境だと、どうしても性的な思考に傾きがちになる。 それに便乗するか、抑えるか、選べるくらいには、まだ冷静ではあるが。 「これ以上行くと、話し声が聞こえなくなりますけど、どうしますか」 「あ…、じゃあ、この辺りで」 イルカはどこかぼんやりとしていた。 異常な雰囲気に圧倒されているのかもしれない。 ふと我に返ったように、イルカが手持ちのオレンジジュースを半分ほど一気に飲んだ。 自分も持っていたオレンジジュースの小瓶に口をつける。 入店時、イルカにはアルコールを勧めた。 こちらに気兼ねしないでほしかったのと、酔った姿を見てみたかったからだ。 だがイルカは結局、ソフトドリンクを選んだ。 もちろん自分も素面だ。 それなのに、時折ライトが当たるイルカの横顔に、妙に駆り立てられる。 目の前に熟れた果実をぶらさげられている気分になる。 手を伸ばすか、首を伸ばして齧りつけば、すぐに味わえそうで、抑えるのに力がいる。 もう一度、オレンジジュースに口をつけた時だった。 いかにも軽薄そうな格好の酔っ払い男が突然、イルカの正面で立ち止まった。 咄嗟に警戒のスイッチが入る。 持っていた瓶をジーンズのポケットに落として、両手をあける。 「君みたいな優等生タイプ、好きなんだよねー。オレ、男でも全然イケ…」 イルカの頬を撫でようとする動きを見せた瞬間、男の手首を掴み、背部へ下げながら捻った。 大音量の空間で上がった呻き声に気づいたのはイルカくらいだろう。 続けざまに、こぶしで相手のこめかみを的確な強さで突く。 騒ぎになると面倒なので、気絶させるのは1秒でいい。 さっ、とイルカの腰を引き寄せた。 早々に場を離れ、バーエリアへと連れ出す。 「すみません。オレが付いていながら」 ああいう奴が出没する店なのだ。 接近する前に、関わらずに済むように目を配っておくべきだった。 イルカに魅せられて視野が狭くなっていた。 「い、いえ…。それ、は…全、然…」 イルカも動揺しているようだった。 少し休みましょう、と言って空席を探す。 だが、どこも埋まっていた。 それでもきょろきょろと根気強く探していると、先客が立ち上がっている席があった。 あそこなら座れそうだ。 「…か、カカシさん…」 「次、あきそうな席がありました」 「手…、あの…、手…を、離して…くれません…か…」 はっとして、素早く手を離した。 手がイルカの腰に馴染みすぎていて、接している状態が自然になっていた。 「すみません、失礼しました」 「…い、嫌だったわけじゃないんです…。ただ…恥ずかしくて…」 俯くイルカの耳が真っ赤になっている。 ああ、かわいい。 ごくり、と鳴ったのどを、残りのオレンジジュースで潤さずにはいられなかった。 席に手のひらを向け、イルカに触らずにきちんと案内する。 先客と交代で4人掛けのボックス席に入った。 座った途端、イルカもオレンジジュースを飲み干した。 「次、なに飲みますか」 「同じものにします。イルカさんは何にしますか。一緒に取りに行ってきます」 「カカシさんは座っていてください。飲み物は俺が」 テーブルに出していたカカシの空き瓶を掴んで、イルカが席を立った。 引きとめる間もないまま、イルカがそそくさとバーカウンターのほうへ行ってしまう。 カカシまで立ったら、せっかくの席を失ってしまう。 仕方なく、イルカの後ろ姿を、ぴったりと目で追った。 その視線を遮って、通路の向こう側から若い女性がやって来た。 デニムのミニスカートに、胸元ゆるめのノースリーブを着ている。 イルカが見えないから、早くどいてくれ。 そう思っていると、カカシたちのひとつ手前のボックス席に入っていった。 だが彼女はすぐに出てきて、また視線を遮られる。 「お一人なんですか」 しかも、話しかけてきた。 視線をバーカウンターへ向けたまま口を開く。 「連れがいます」 だから邪魔をするな、という意味で冷たい声で告げた。 「彼女さんですか」 イラっとした。 答えにくい事を無神経に聞いてくる相手にも、嘘でも即肯定できなかった自分にも。 「お兄さん、超イケメンですね」 言いながら彼女が、滑り込むようにしてカカシの隣に座ってきた。 離れようとして席の奥へずれるが、作った隙間をすぐに埋められる。 不躾に腕に抱きついてきて、豊満でもない胸を押しつけてくる。 「ちょっと」 「ひと晩くらい、いいでしょ?」 「迷惑です」 はっきりと拒んでいるのに、冗談だと思っているのか、身を引く様子がない。 軽く引き剥がそうとすると、逆に上半身に横から抱きついてきた。 背中、胸、腹をべたべたと触ってくる。 こちらが手加減してやっているのをいい事に。 「体までイケメンじゃないですかぁ。ひとりの子しか相手にしないのはもったいないですよぉ」 こんなに密着していたら、絶対に勘違いされる。 けがらわしいと思われる。 清廉なイルカを不快にさせてしまう。 「マジでやめて」 これだけ明確に嫌がっているのに、さらに彼女は顔を近づけてきた。 酒くさい息を、ふぅー、と耳元に吹きかけられる。 どういう神経をしているのだ。 一般人の女性を邪険に扱いたくはないけれど、もう力で強引に押しのけてもいいだろうか。 本気で振り払おうと決めた途端、体が強張った。 すぐそこの通路で、イルカがトレイを持って立ち尽くしていた。 目が合った一瞬。 イルカが、ぎゅ、と眉をしかめて悲しげな顔をした。 map ss top count
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