違うんです、ごめんなさい、と胸をよぎった言葉が、口から出ていかない。 ドリンクのお礼と、女性がいる事の謝罪は、どちらが先か。 相手を突き飛ばして暴力的な男と思われるのと、突き飛ばさないで女にだらしない男と思われるのと、どちらがいいのか。 重要な神経を頭から引き抜かれてしまったみたいに、思考力も判断力もひどく鈍っている。 とにかく女性から逃れたいのに、手の動かし方ひとつわからない。 これでは洗面室での電話を聞かれた時と同じじゃないか。 自分はこんなにも無能だったのか。 「あ、店員さん、おしぼりくださーい」 イルカの表情が一変した。 女性があきらかに、イルカに向かって言った。 ふざけるな。 その人は店の従業員じゃない。 自分の大切な人だ。 「失礼いたします」 イルカがにこやかにテーブルの脇に立った。 悲しげな顔なんてなかった事みたいに、声まで穏やかだった。 トレイに乗せていたダスターで手早く天板を拭き、女性とカカシの前におしぼりとオレンジジュースの瓶をひとつずつ置いた。 店員になりきっている。 残念ながら、きっちりとした服装にも違和感がなかった。 こんな状況でも自然に立ち回れるイルカの対応力の高さを、うまく受けとめられない。 「わぁー、気の利く店員さん」 その飲み物は、イルカが自身とカカシのために持ってきてくれたものだ。 あんたのためじゃない。 「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」 イルカが微笑みをたたえたまま、丁寧に会釈をして、踵を返した。 あっという間に姿が見えなくなってしまう。 そうなってようやく、頭と体が動き出した。 しとやかに並んだ瓶を、続けざまに呷る。 イルカが持ってきてくれたドリンクを、1滴たりとも他の奴に飲まれるのは許せなかった。 女性を無視して立ち上がり、無理やり席を出る。 わざとらしい小さな悲鳴が聞こえたが、彼女を一度も見る事なくイルカの後を追った。 人だかりからイルカを探す。 砂漠で落とした指輪を拾えるか、試されているような気分だった。 こんな店にはもういたくないと、出ていってしまったか。 気晴らしに刺激を求め、ホールの深部へと行ってしまったか。 店内を360度、隈なく見渡す。 慎重に、丁寧に、できるだけ早く。 外へと続く階段のほうに、ひとつ結びのイルカの頭が見えた。 だいぶ離れている。 早く追いつかないと見失ってしまう。 イルカがひとりで考える時間が1秒でも延びるほど、傷口が広がる気がしてならない。 人垣の樹海を、時には手荒に掻き分けていく。 それでもジグザグにしか進めない。 抜けるだけで、かなりの時間がかかった。 階段を駆け上がりながら、イルカに電話をかける。 だが、通話中で繋がらない。 地上へ出ると、月曜の夜11時近くても、人通りはそれなりにあった。 視野の利くすべての範囲を、ここでも隅々まで見渡す。 駐車場は店を出て左へ、坂を上った方面だ。 イルカがそちらに向かったとは思えない。 確率が高いのは、電車か、バスか。 ラーメン店にいた事を考えれば、徒歩で帰ろうとしている場合もあり得る。 どうしよう。 タクシーに乗られてしまったら。 迷路と言われている、あの地下道に入られてしまったら。 諦めて宿へ先回りするほうが、確実で、余計な時間も手間もかからないのだろう。 でも、イルカに対してその選択肢は、ない。 祈るような気持ちで視線を巡らせていると、坂を下る方面の先に、店舗照明の当たったイルカの頭が見えた。 いた、と思った時にはすでに走り出していた。 イルカは地下鉄の入口へ真っ直ぐに向かっている。 もう二度と見失わない。 イルカを視界に収めたまま、車道に出た。 路上駐車や張り出た街路樹を避けながら、側溝の蓋の上を走る。 ぎりぎりの所で歩道に戻った。 イルカの肩に手を伸ばす。 単なる仕事だったら、ここまでしていない。 「…イルカさん」 呼びながら肩を掴むと、イルカが振り返った。 貼りつけたような笑みは、もう浮かべてはいなかった。 悲しそうな顔もしていない。 ただ、驚いてはいるようだった。 「そっちじゃないです」 「え?」 「一緒に帰りましょう」 イルカが、くしゃ、と泣きそうな顔をした。 でもすぐに、困ったような嬉しそうな顔で笑ってくれた。 「いいんですか…?」 「当たり前です」 「また…カカシさんの邪魔、しちゃいましたね。すいません」 「あなたが邪魔な事なんて、ひとつもありません」 さり気なく方向転換をして、駐車場のほうへとイルカを促す。 もう離れないように、イルカの手を握っていたい。 いや、誰にも割り込まれないように、腰を引き寄せていたい。 でもそれができないから、けして触れることなく、腕をイルカの腰の後ろで待機させる。 「お気をわずらわせてすみませんでした。即興の芝居までさせてしまって」 「…俺、ウエイターのバイトした事あるんですよ。演技、けっこう上手かったでしょう?」 ハハハ、とイルカが乾いた笑い声を上げた。 照れているというより、自虐的な響きがあった。 気になってイルカを窺うと、深めに目を伏せていた。 「…カカシさん、積極的な女性がお好きなんだと思って…妨げちゃいけないなって一心で…」 ガン、と鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃だった。 たぶんイルカは、昨夜の電話相手の事を言っている。 そして、恋人がいるのに別の女にも手を出す奴、とも思われている。 ひとつ、ひとつ、否定したい。 でも、否定する事はセフレの存在をイルカに知られる事でもある。 きっと、性にだらしない男だと思われる。 いや、もう手遅れか。 でもだったら、正直に話すほうがいいのだろうか。 イルカに誠実であるためには。 「…積極的とか、そういう事より、オレが好きなのは…」 ごく、とのどが鳴った。 あなたです、という言葉を飲み込んだ。 「…笑顔が素敵な人、です」 もしかしたら、イルカが公園で笑っているのを見た時から惹かれていたのかもしれない。 「危険で出張ばかりの仕事なので、もともと恋人や結婚とは縁遠いですが」 「そうなんですか…?」 「昨日の電話の女性も、なんというか…その…、体だけの関係、というか…」 不潔、不道徳、色狂い…。 どんな侮蔑の言葉が返ってきても、それがイルカの気持ちだ。 すべて受けとめてみせる。 「…大人…ですね…」 イルカが呟いた。 声には驚きと感心が含まれていた。 嫌悪されている気配は、ない。 「てっきり彼女さんなんだと…」 「彼女なんていません」 イルカの語尾に被せて、強く否定した。 潔白を示すチャンスは今かもしれない、と察して畳みかける。 「女性関係は昨日、すべて断ちました」 「え、昨日? 全部ですか? なんでそこまで…」 「今は、イルカさんに集中しているので」 これはほぼ、愛の告白だ。 俯いたイルカの耳が赤い。 伝わっているのだろうか。 そのままイルカを見つめていたら、そっと顔を上げた。 遠い目をしている。 「…護衛相手が変わるタイミングで清算していく、って事ですよね。やっぱりモテる男は違いますね」 仕事のスパンで女性を切り捨てる男、と思われたのか。 そんなわけがない。 イルカだから、なのに。 「こんな事は…」 初めてです、と言おうとした時だった。 「あ、ヤマトさんからです」 イルカが携帯電話を出して、通話を始めてしまった。 好色男だと思われたまま。 でも、イルカのためにはそのほうがいいのかもしれない。 こちらの本心が知られて、曲がりなりにも関係が進展してしまうよりは。 「早く帰れ、だそうです」 イルカが携帯電話をポケットに戻した。 ヤマトとのやり取りが終わったようだ。 「明日も朝から夜まで予定が詰まっているんだから、って」 その「夜の予定」というのが、少し気がかりだった。 カカシも面識のあるベテラン議員が主役の集まりに、イルカが出席する事になっているのだ。 頭脳派のあちらが、カカシを忘れるはずがない。 できれば顔を合わせたくない。 あちらには、イルカに明かしてほしくない情報を握られている。 明日こそ、どうか無事に1日が終わりますように。 そう、願わずにはいられなかった。 map ss top count
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