開場は17時30分、開演は18時30分。
議事堂での本会議を終えると、イルカの大先輩にあたる議員に失礼のないように、開場30分前には会場へ到着していた。
といっても、会場はイルカたちが滞在しているホテルの8階にある大広間だ。
始まるまでは子どもたちと過ごしたいという事で、一旦イルカは部屋に戻った。
自分はそのあいだ、会場のテーブルやイスの裏側、壇上のマイクや照明など、設備に不審物がないか確かめていた。
今日はまだ特に何も起きていない。
これから始まる会も無事に終わればいいのだけど。
イルカの安全という意味だけでなく。
主役のベテラン議員が余計な話をしない事を祈るばかりだ。
イルカが日頃から使う経路に異常がないか確認しながら、自分も部屋に向かう。
滞在している階でエレベーターを降りると、エレベーターホールの観葉植物が新しくなっている事に気がついた。
念のために、葉や幹、鉢を調べる。
持ち上げて揺らし、重さや音、匂いを確かめるが、異常や不自然な点はなかった。
部屋に戻ると、イルカがダイニングテーブルに着いて、子どもたちの宿題を見ていた。
イルカの眼差しは真っ直ぐで、心配そうで、でも穏やかで、あたたかくて、深い愛情に満ちていた。
何気ない光景なのに、ずっと眺めていたくなる。
「イルカ先生、取材を前倒しして、これからやらせてくれないかって連絡が来たんですけど、どうしますか」
スタッフ部屋から発せられたヤマトの声に、夢のような世界から引き戻された。
残念に思いながらも、記憶していたスケジュールと照らし合わせる。
当初の予定では、取材は閉会後の21時からだった。
場所は、このホテルの別室。
「シカクさんの到着が開演ぎりぎりになるみたいで、順番を入れ替えてほしいそうで」
「大丈夫ですよ」
「了解です。支度お願いします」
「わかりました。ナルトも木ノ葉丸も、わからない所はヤマトさんに聞くんだぞ」
イルカが立ち上がり、ウォークインクローゼットへ入っていった。
身だしなみを整えに行ったのだろう。
「先輩もネクタイとジャケット、お願いします。取材のあと、会場に直行なので」
了解、と応じて指定の装備を取りに行こうとすると、ヤマトがこちらへ寄ってきた。
視線はウォークインクローゼットのほうに固定されている。
「先輩、さっき警察と少し話したんですが」
ヤマトが声をひそめた。
子どもたちに配慮したのだろう。
「昨日のキモい手紙から容疑者のDNAが検出できそう、との事です」
DNAがわかれば、大きな手がかりになる。
近いうちに犯人が特定できるかもしれない。
うん、と軽い返事をしながら、この任務との、イルカとの別れが、否応なしに頭をよぎった。



取材はきっちり30分で終わった。
その足で本会場へ移ってから、イルカは頭を下げる事と雑談を繰り返している。
立食形式で、決まった席がないため、入れ替わり立ち替わり誰かがイルカに寄ってくる。
「あら、イルカくん。お久しぶり」
「メイさん! お久しぶりです」
今度は年上の女性だった。
水の国の美人首長、照美メイだ。
どこかで誰かの護衛中に、見かけた事がある。
イルカとは意外と親しげに話している。
仕事相手というよりは、親戚同士という雰囲気だ。
それが関係あるのかないのか、それまでイルカが挨拶をしていた人たちに比べて、ずいぶんと雑談が長い。
もしかして、イルカを狙っているのか。
彼女が婚活に励んでいる事は周知の事実だ。
心なしか、イルカの髪や肩に触れる機会が多い気がする。
時折ちらりとカカシに向けられる視線に、敵意のようなものも感じる。
『大変長らくお待たせいたしました』
スピーカーから女性司会者の声が響いた。
『本日は、木の葉出版主催「奈良一族の思考整理術」ベストセラーを祝う会にご参加いただきありがとうございます』
密やかにやって来た会場スタッフの男性が、さりげなくイルカを前方へと促した。
イルカは壇上で祝辞を述べる事になっているのだ。
これでようやく彼女とイルカを引き離せる。
司会者の進行で、今日の主役である奈良シカクの挨拶が始まった。
イルカのそばで控えながら、会場の隅々まで目を配る。
明るく目立つ場所で護衛対象が孤立する登壇は、犯人に一番狙われやすい状況だ。
妙な動きをする者がいれば、迷いなく取り押さえる。
体勢を整えていたが、イルカの出番はつつがなく終わった。
数名の祝辞のあと、シカクが司会者に促されて再び中央に立った。
短い前置きで乾杯の音頭を取り、食事と歓談が始まる。
途端に、シカクの元へ我先にと人が集まっていった。
彼らの姿が、飢えた獣のように見えた。
この出版不況の時代に、こんな盛大な会を開くほどの部数が売れたのだろう。
次は我が社で、と思うのが人情だ。
シカク側も、さらに資金を集めたくて開催に同意したのだろうか。
奈良一族には金銭に執着する印象はなかったけれど、時代の流れと共に家風も変わったのだろうか。
「カカシさん、今のうちに食べておきませんか」
声をひそめて言ったイルカが、気配を消して静かに料理に近づいていった。
さっと取り皿を埋めて、さっと口に運んでいる。
いたずらっ子のように楽しげで、おいしそうに頬張る顔の純真なかわいさに、目がくらくらした。
「嫌いなものがあったら、言ってください」
ささっ、と手際よく埋めた皿を、カカシにも渡してくる。
フォークまで添えて。
思わず受け取ってしまったじゃないか。
両手が塞がっていたら、仕事の妨げになるというのに。
だが、こんなにかわいい事をしてくる人の厚意を断る事なんて、できるわけがない。
幸い、苦手な天ぷらはメニューにはなさそうだ。
いや、たとえあったとしても、イルカが取り分けてくれたものはすべて、ありがたくいただく。
「ありがとうございます」
イルカと同じく、ささっと口に運んだ。
手早く取り分けたにしては、野菜、肉、魚介、豆、きのこなど、思いのほか栄養のバランスがいい。
こういう場で、まともに食事をしたのは初めてかもしれない。
そもそも食事を勧められる機会が滅多にない。
「イルカ」
後ろから聞こえた声に、呼び捨てだと? と眉間が寄る。
振り返ると、本日の主役がいた。
彼なら仕方がない。
「祝辞、ありがとな」
「恐縮です。このたびはベストセラーおめでとうございます」
「イルカも一発当てりゃ、好きな事にカネが使えるぜ」
「シカクさんは何に使うんですか」
「森林やら野生動物やらの保護活動してる団体に寄付する」
おっ、と思ったが口には出さなかった。
いかにも奈良家らしい発想だ。
「イルカならどうする」
「経済的な事情で学力がふるわない子の支援に回したいです」
「よし。ブレてねぇな。お前はもう政治家なんだ。口だけになるなよ」
「はい。肝に銘じます」
シカクの視線が、ちら、とこちらに流れてくる。
鋭い眼光に、内心、ぎく、とした。
「…今日は志村さんトコにいた秘書は一緒じゃねぇんだな」
「ヤマトさんは別件がありまして」
別件、というのは子守りの事だ。
志村、という人物は誰なのだろう。
ヤマトが秘書をしていたという事は政治家なのだろうけれど。
「あまり見かけねぇ男を連れてると思ってな」
「新しい警護のかたです」
「どんなに頼り甲斐があろうが、そいつの女グセだけは見習うなよ」
背筋が、ひやっとした。
頬が引き攣る。
やはり忘れてはいなかったか。
あれは、性的に寛容な国で行なわれた国際会議で、要人警護に就いていた時だった。
仕事の合間に女性たちと楽しむ姿を、シカクに見られたのだ。
「女ぐせ…」
イルカの呟きに、尋常でない量の手汗が、急に噴き出してくる。
ここで自分が弁解するのはおかしいだろう。
事実なのだし、イルカと恋愛関係にあるわけでもないのだ。
わかってはいるのだけど、飲み込まざるを得ない言葉の塊で、口元がゆがむ。
「…俺はモテないから大丈夫ですよ」
「そうでもないだろ」
なんだと。
詳しく聞かせてくれ。
「奈良先生! 次回作はぜひ弊社でお願いしますぅ」
「森と鹿の研究書なら出してもいいぜ。俺は忙しいんだ」
シカクに再び人が集まってきて、そのまま距離ができていった。
イルカの恋愛話が聞けなかったのは残念だ。
でも、こちらの黒歴史を深掘りされずに済んだ事は助かった。
イルカがモテる事なんて百も承知だ。
こんなに誠実な好青年が、女性に不人気なわけがない。
自然と再開された雑談でも、イルカは相手がどんなに上から目線だろうが、どんなに馴れ馴れしい態度だろうが、分け隔てなく丁寧に接している。
それは閉会まで続いた。
さすがだ。
イルカへの尊敬の念を新たにしていると、再び照美メイがやってきた。
こそこそとイルカに耳打ちをしている。
このあと2人きりで、とでも誘っているのだろうか。
イルカは真面目な顔で何度も頷いている。
話が終わったようで、彼女がイルカから離れて出口へ向かった。
「カカシさん、あの、急なんですけど…、メイさんがこのあと少し話したいと言っていて…」
やはりそうきたか。
イルカは気まずそうに目を伏せている。
親戚付き合いの年長女性に迫られて、困惑しているのだ。
「上の階のバーなんですが…。あの、無理にとは言わないので…」
護衛で同行してくれますか、と言いたいのだろう。
歯切れが悪いのは、予定外の案件でカカシを遅くまで働かせる事を気にしているから。
イルカを口説こうとしている女性を、仕事として見張れるのだ。
答えはひとつしかない。
「お供します」
ほっとしたのか、イルカが小さく息をついた。






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2021.06.27