46階のバーから見える夜景は、さぞロマンチックな事だろう。
メイにカカシと2人きりで話したいと言われた時は、一瞬息が止まった。
でも、どこで繋がるかわからない縁を自分が奪うのは間違っている気がした。
だから、どうか断ってくれますように、と願ったけれど。
カカシに勇ましく「お供します」と返されて、思わず溜め息が零れた。
メイはホテル内に部屋を取っている。
カカシは遅くなるだろう。
今度こそ朝まで帰ってこないかもしれない。
「だいぶ凝ってますね」
ヤマトの楽しげな声がした。
ソファーでうな垂れていたら、部屋から出てきたヤマトが「肩、揉みますよ」と言ってくれたのだ。
疲れていると思われたのだろう。
事情を聞かれても困るので、否定はしなかった。
ヤマトは背もたれ越しに立って、ポイントを的確に、絶妙な力加減で押してくる。
相変わらず、上手い。
それをただ享受していたいのに、上層階にいる2人の事ばかりが頭に浮かんでくる。
メイには幸せになってほしい。
でもそれがカカシとだったら、素直に喜べない。
悲しみが嬉しさを上回ってしまう。
考えただけで目が潤んでくる。
「カカシ先輩はどうしたんですか? 巡回ですか?」
「…メイ、さんと…、バー、に…」
施術の圧と弾みで、声が途切れ途切れになった。
イルカがモテない事をシカクには否定されたけれど、モテるというのは本当はカカシのような人の事をいうのだ。
どこにいても誰かを惹きつけている。
「なるほど」
ヤマトはすべてを理解したようだった。
有能な秘書で助かる。
「じゃあ今夜は僕も奥で待機します」
「…いいん…です…か…?」
「もちろんです。イルカ先生は僕が守ります」
大げさな口ぶりがわざとらしくて、笑ってしまった。
おかげで体の力みが適度に抜けたようで、ヤマトの指が深みの凝りまで届き始める。
「うぅ…、あぁ…、そこ…っ、きもちい…です…っ、う」
「強めにいきますね」
「んんっ…、きもち、ぃ…っんー」
「ここ、ですか…? ああ、こっちも」
「あぁっ…そこ、ぉ…、っん…もっと強く、てもっ…う、んぁあー…」
後ろのほうで、ごと、と何か重たいものが床に落ちたような音がした。
「今夜は戻らないと思いましたが」
「…仕事中でしょうよ」
抑揚のないヤマトの声に続いたのは、カカシの声だった。
ようやくほぐれてきた肩が、途端に強張る。
「気配を消して入ってこないでくださいよ」
「…寝てたら悪いと思って」
ヤマトとカカシのやり取りは、くだけた口調の割に、どこか緊張感が漂っていた。
たしかにヤマトの言うとおり、ドアを開け閉めする音も、足音も、何も聞こえなかった。
戻ってくるのも、ずいぶんと早い。
メイと何かあったのだろうか。
「…2人で何してるのかと思った」
「ああ。喘ぎ声に聞こえましたか。イルカ先生の」
「なっ…、ヤマトさん何をっ」
かぁー、と顔に熱が集まってくる。
そんなわけがない。
いつも冷静で、恋愛や性を趣味やスポーツとしか思っていなさそうなカカシに限って。
冗談でも、やめてほしい。
「照美さんと1戦交えた直後だから、そう聞こえたんじゃないですか」
ああ、そういう事か。
ヤマトの言葉にひどく納得した。
すっ、と熱が引いていく。
「その発想がもう、ヤマトにも自覚があったって事でしょ」
「僕たちの関係を卑しめるのはやめてください。こんな短時間で済ませてくるような人にはわからない深い信頼で結ばれているんですから」
「さっきから、その下品な言い方をやめなさいよ」
「下品なのは先輩のほうでしょう。せっかくですから、安心して羽を伸ばしてきてください。今夜は僕がイルカ先生についていますので」
「本当にこちらの事は気になさらないでください。ヤマトさんもいてくれますし」
2人のやり取りを聞いていられなくて、口を挟んだ。
じゃあ、と軽やかに部屋を出ていくカカシの姿が目に浮かんだ。
気持ちが沈んできて、顔を伏せる。
その視界の端に、ふと、カカシの靴先が入り込んだ。
「イルカさんの護衛は、オレ、です」
力強い口調だった。
誰かと替わるつもりはない、という明確な意思を感じた。
責任感からなのだろう。
護衛対象を安心させるために、これまでも口にしてきた言葉なのだろう。
それがわかっていても、勘違いしてしまいそうになる。
イルカだけを特別に、大切に扱ってくれているのではないか、と。
カカシにそんな気持ちは1ミリもないのに。
さすがに嫌われてはいないようだとわかってきたけれど、それは好かれている、という事とは違う。
感情が乱高下して、熱湯と冷水がいつまでも混ざり合わないまま体の中に渦巻いているみたいだった。
胸の苦しみに、じっと耐えていると、何かを差し出された。
視線を上げた先にあったのは、ワインのボトルだった。
さっきの物音はこれだったのか。
「木ノ葉丸の生まれ年のワインです。三代目がキープしていたそうで」
申し訳ない。
届け物のために戻らせてしまった。
よりによってデートの途中に。
「…わざわざすみません。…水を、差してしまって」
「連絡をくれれば、僕が取りに行ったのに」
「帰る口実に使わせてもらいました。あの人、シャンパンひと口で、くだを巻き始めたので」
ああ…、というイルカの溜め息がヤマトと重なった。
いつもの悪い癖が出てしまったのか。
カカシのような素敵な人を前にして、好物を我慢できなかったのだろう。
「もちろん何もしていません。イルカさんの知り合いに、手を出すわけがない」
落ち着いていて、とても真摯な声だった。
嘘みたいに体の強張りが解けていく。
ヤマトの施術よりも効果があったかもしれない。
「僕はてっきり10分1本勝負だったのかと。ついでに、このあと2本目に入るのかと。照美さんにシャンパンを飲ませたら、どちらもないですよね」
「だからさ…。その低俗な表現をやめなさいよ」
「多情な先輩なら充分ありえるかと」
「ない。絶対」
カカシがムキになっているように見えた。
珍しい様子に、頬が緩む。
いつの間にか、さっきまでのヒリヒリした感覚がなくなっていた。
メイには申し訳ないけれど、カカシとは縁がなかったと思ってほしい。
「ワイン、ありがとうございます。あいつが成人するまで、大切に保管しま…」
キャビネットにしまおうと、ソファーから腰を上げると突然、ボンッ、という爆発音がした。
体が固まる。
爆発音に驚いたから、だけじゃない。
カカシの胸に引き寄せられたから。
締めすぎず緩すぎない力で、包まれている。
圧倒的な安心感だった。
こんな時なのに。
カカシは依頼人を守ろうとしているだけなのに。
嬉しくて、幸せで、涙が出そうだった。
「…外を、見てきます」
カカシの腕が解かれて、我に返った。
名残惜しさを掻き消して、ナルトと木ノ葉丸がいる寝室に駆け込む。
爆発音は大きかったけれど、分厚い壁越しという感じだった。
発生源は、廊下か、同じフロアの別の部屋か。
2人は音に気づかずに、すやすやと眠っている。
かわいそうだけど、無理やり子どもたちを起こした。
上着を羽織らせ、手早く荷物をまとめる。
遠くで火災報知機の鐘が鳴り始めた。
ヤマトはフロントに電話をかけているようだった。
開けたままだった寝室のドアから、居室の明かりを背負ったカカシが顔を出した。
「避難できますか」
「今、靴を。ナルト、左右が逆だぞ」
寝ぼけた声で、おぅ…、と返事があった。
木ノ葉丸は、ほぼ眠っている。
抱いていくしかない。
「エレベーターホール方面で発煙を確認しました。スプリンクラーが作動しています。北側の非常口が生きています。部屋を出て左です」
木ノ葉丸に靴を履かせて抱き上げようとしたら、カカシに木ノ葉丸を持っていかれた。
片腕で抱き、もう一方の腕で荷物まで持っている。
「鞄は俺が」
「ヤマトに持たせます。イルカさんはナルトの手を握っていてください。急ぎましょう」
カカシは、わかってくれている。
口には出さなくても、イルカの考えを。
そう思う事が、今までに何度あった事だろう。
カカシの存在は、とっくに自分の中で護衛という枠を飛び出している。
これからもずっとそばにいてくれたら。
叶わない事はわかっていても、もう自分の気持ちから目を背ける事はできそうになかった。






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2021.07.11