数十分ほどで戻ると、ダイニングテーブルの中央にロング缶3本がタワーのように積み上げられていた。
すべてアルコール度数が高めのタイプだった。
「あ、カカシさん、おかえりなさい」
イルカはキッチンにいた。
髪を下ろしていて、浴衣姿だった。
あいかわらず襟から胸元が、緩い。
魅惑の肌チラから目を逸らすのがやっとだった。
ヤマトはダイニングチェアに座って、イルカのほうを向いている。
見るんじゃない、と注意して首をこちら側に捻ってやりたいくらいだった。
「すいません、勝手に台所を」
「いえ、自由に使ってください」
「ありがとうございます。カカシさんもカップラーメン食べますか」
イルカは電気ケトルに水を注いでいた。
どこでも買えるカップ麺の、しかもまだ支度段階なのに、イルカはどこか楽しそうだった。
ラーメンなら全般的に好きなのかもしれない。
「今は大丈夫です。そろそろシャワーを浴びたくて」
「あ、そうですよね」
テーブルに積まれていた缶を持ち上げると、すべてがカラだった。
イルカが座っていたらしき席に、もう1本置いてあるのは、まだ中身が入っているのかもしれない。
出かける前は「1本くらい」と聞いたはずなのだけど。
イルカも酔っているようには見えない。
実は1口か2口しか飲んでいない、という事だろうか。
「これ、2人で飲んだの?」
空き缶を指して、こそこそとヤマトに尋ねた。
「僕はグラス1杯だけで、あとはイルカ先生です」
「えっ、マジで?」
この短い時間にひとりで強めのロング缶2本半は、さすがにペースが速すぎないだろうか。
しかも、飲み途中が1本。
「マジです。風呂上りに1本あけたら、スイッチが入っちゃったみたいで。よっぽど温泉が嬉しかったんでしょうね」
温泉を喜んでくれたのはよかった。
でも、イルカのアルコール耐性と、飲んだ事が表に出ない度には、少しがっかりした。
自分が酒で変わらないタイプのくせに、つい期待してしまった。
ただ、キス魔や脱衣魔、甘え上戸のような厄介な酔い方ではなさそうなのは、ほっとした。
別にカカシの前だけでなら、そういう酔い方をされても大歓迎ではあるのだけど。
「悪酔いするような人じゃないので、問題はないと思いますよ」
それならば特別な配慮は必要ないのだろう。
気を取り直して着替えを取りに行き、シャワーを浴びてリビングに戻った。
テーブルの上がきれいになっている。
ヤマトは部屋に戻ったのか、すでにいなくなっていた。
イルカは歯磨きをしながら、携帯電話を見ている。
とても穏やかな目で。
小さな音量でナルトや木ノ葉丸のはしゃぐ声が聞こえてきた。
きゅう、と震えた胸が、あたたかいもので満たされていく。
いつかのように、足元がふわふわしてきた。
イルカの日常に、イルカの幸せに、これからもずっと寄り添っていきたい。
唐突に込み上げてきた熱い思いが溢れそうになって、さっと目を伏せた。
体に力を入れる。
イルカとすれ違う際に、先に休みます、とだけ告げて、足早に部屋へと向かった。
急に起きても目が眩まないように、ベッドサイドの薄明かりを点ける。
父が使っていた窓側のベッドではなく、ドアに近いほうのベッドに入り、頭まで布団を被った。
珍しく感傷的になっている。
下手をすると涙が出そうだった。
亡くなって20年ほど経っても微かに残る父の気配に、郷愁を煽られたわけじゃない。
イルカと離れたくない、と。
これからの人生を共に歩みたい、と。
イルカにも同じ気持ちを抱いてほしい、と。
心の底から、そう思ってしまった。
思った所で叶わない事だとわかっている。
苦しいのは、そのせいだ。
どんな激戦地で追い詰められても至る事のなかった心理状態だった。
これが絶望なのだろうか。
歯を食いしばって、やり過ごそうとしていると、ドアが静かに開いて閉まる音がした。
誰が来たのかは、足音でわかった。
じっと動かずに、寝たふりをする。
その左半身に、どさ、と重みが載った。
「ナルトぉ…おっきくなったなぁ…」
布団越しに、ぎゅう、とイルカに抱きつかれる。
「ちくしょー…いつの間に俺を追い越してたんだよぉ…」
髪をわしゃわしゃと掻き混ぜられる。
上部の布団を下げられ、ぐりぐりと頬ずりまでされる。
駄目だ、我慢しろ、やめておけ、という自制の声が頭の中で繰り返されても、止められなかった。
ぎゅうぎゅうにイルカを抱き返す。
人違いでもいい。
今、イルカと、くっ付いているのは、自分、なのだ。
「おぅ…? なんだぁ、さびしかったのかぁ…? よぉし…よぉし…」
片腕で顔を抱き込まれ、するすると頭を撫でられる。
筋も骨も溶けたのかと思うほど、体の力が抜けていく。
至福以外の何ものでもなかった。
そっと目を閉じる。
罪悪感に蓋をして、これまでの人生で味わった事のない充足感に身を任せた。
これは許されない事だ。
自分は裏社会で散々汚い仕事を引き受けてきた。
でももう、この感覚を知る前には戻れない。
もう、イルカなしでは生きていけない。
この人のそばに居続ける事は、本当にできないのだろうか。
イルカの害にならずに、そばにいるにはどうしたらいいのだろう。
害なのは主にカカシの過去だ。
ならば過去をきれいにできたらいいのか。
例えば、誰かを身代わりにしてカカシの過去を背負わせるとしたら。
それならできるかもしれない。
物騒な手順は今更だろう。
ひとりの人間を社会から抹殺する事になるのだ。
やり直しは利かないし、失敗も許されない。
最後の十字架を背負う後押しがほしくて、ぎゅう、と縋るようにイルカを抱きしめた。
だが、返ってきたのは健やかな寝息だけだった。
なんだ。
寝てしまったのか。
こちらの気も知らないで。
わかりにくかっただけで、イルカも酔っていたのだろう。
かわいい酔い方をする人だ。
夜明けが近いというのに頭も胸もいっぱいで、とても眠れそうになかった。
そう思っていたのに、あまりの心地よさに、気づいたら信じられないほどに熟睡していた。
「あー! いたってばよ!」
「ヤマトたいちょー! イルカ先生発見だコレェ!」
「なんで六代目と一緒に寝てんだってばよ」
ナルトと木ノ葉丸の騒がしい声に意識が浮上した。
重たい瞼をこじ開けると、すぐそばにイルカの顔があった。
左腕に包まれるような圧を感じる。
まさか。
「…2人とも…今日はゆっくり寝てていいんだぞ…」
イルカが目を閉じたまま、もにょもにょと呟いた。
左腕を包む圧がわずかに変化する。
間違いない。
イルカがカカシの左腕を抱き枕のように掴んでいる。
かなり浴衣が着乱れた状態で。
吸いつくようなイルカの素肌に、ぴったりと接している。
ものすごい勢いで体が覚醒した。
まずい。
勃起する。
極めて緊急性の高い危機感に、がばっ、と飛び起きた。
大した手応えもなくイルカの腕がほどけ、布団がめくれる。
半裸より脱げているイルカの寝姿が露わになり、咄嗟に目を逸らした。
大慌てで布団をかけ直す。
それでもイルカの健康的な体が目に焼きついて離れない。
イルカの肌の質感も体温も、腕に生々しく残っている。
昨晩は布団越しとはいえイルカを抱きしめたのに、いやらしい気分にならなかった事が、今は不思議でならない。
ベッドを降り、子どもたちの肩を押して部屋から追い出した。
自分も一緒に部屋を出て、そっとドアを閉める。
「たまにはゆっくり寝かせてあげなさいよ」
当たり障りのない声かけをして、ナルトが気にしていた「一緒に寝ていた理由」を有耶無耶にした。
そういえばあいつら、イルカのあんな姿を日常的に目にしているのか。
急に腹が立ってきた。
イルカも身内に気を緩めすぎじゃないか。
教育家としてどうなのだ。
成長段階に応じて、性との付き合い方も変わっていくものだろう。
幼くても、男は男だ。
いつ獣に変わってもおかしくはないのだ。
「なあ、六代目。あのブランコ、乗ってもいいの?」
ナルトが庭の一角を指差して尋ねてきた。
父が敷地内の木を切って、支柱から手作りしたものだ。
木ノ葉丸もカカシの答えを待っている。
男でも、やはりまだまだ子どもだ。
勝手に熱を帯びていた対抗心が、ゆるゆると引いていく。
「いいよ」
「今日の課題が終わってからだぞ。2人がちゃんとしないと、イルカ先生が悪く言われるんだからな」
ダイニングにいたヤマトがこちらの会話に口を挟んできた。
テーブルには問題集やノートが積んである。
「…わかってるってばよ」
「そうだコレェ…」
子どもたちが自主的に席に着いた。
さすがにヤマトは子どもたちの御し方をよくわかっている。
コーヒーを淹れにキッチンへ行くと、ヤマトがすすすっと寄ってきた。
「…警察から連絡がありました。特定されたDNAが前歴者のものと一致して、容疑者を逮捕したそうです」
逮捕。
さすが、この国の警察は動きが速い。
そいつの写真です、と言ってヤマトが携帯電話の画面を見せてくる。
表示されていたのは、どこか見覚えのある男の顔だった。






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2021.10.09