ただ途方に暮れていた。
講演を毎回熱心に聞いてくれていた後援会員が逮捕されたと聞いて。
ヤマトまでいなくなって。
まずは子どもたちを安心させてあげないといけないのに、そこまで気遣う余裕がなくて。
ヤマトはとても優秀な秘書だった。
スケジュール管理、資料集め、データ分析、意見調整、各種手配、子どもたちの見守り。
ぱっと浮かんだだけでも、多種多様で膨大な量の仕事をこなしてくれた。
そんな人のサポートを受けられたのは奇跡だった。
議員秘書は誰もが、有力な政治家の元で勉強したいと思っているのだ。
当選1回目の未熟な新人なんて、誰も相手にしたがらない。
後援会から逮捕者を出し、秘書のいなくなった自分に、政治家としての価値なんてあるのだろうか。
この国のためにできる事なんてあるのだろうか。
存在する意味なんてあるのだろうか。
誰にも必要とされていないのではないだろうか。
否定的な問いばかりが、どんどん頭に詰まってきて、体の感覚がどんどん鈍くなっていく。
もう耳がよく聞こえない。
周りが日没後のように暗い。
寒いのか暑いのかもわからない。
息苦しさもある。
体が石になったみたいに重たい。
それなのに、木の焦げたにおいだけは苦しいほど鮮明だった。
どこからか、子どもたちの声が聞こえた気がした。
でもよく聞き取れなくて謝り、大丈夫、とだけ伝えた。
そうしたら、急に体が軽くなった。
息も上手くできるようになった。
それでもまだ身体感覚が朧げで、何かに掴まっていたくて、さ迷う手の届いた所にいたのがカカシだった。
情けない。
子どもたちが見ているのに。
申し訳ない。
犯人が捕まった以上、カカシの仕事は終わっているのに。
頭ではわかっていても、どうしても手を離せなくて、すみません、とカカシにも謝った。
だから、カカシに力強く引き寄せられた時は、夢か、と思った。
このままくっ付いていられたら。
ずっと手放さずにいられたら。
どんなに気が休まるだろう。
どんなに心強いだろう。
カカシがいてくれたら、きっとなんでもできる。
でも、自分がそんな事を思っていると知ったら、きっとカカシは嫌がる。
カカシにとって仕事以外の感情なんて、わずらわしくて迷惑なだけだ。
そのくらいの事は、護衛対象を扱うカカシの真摯な姿を見ていればわかる。
身に引き寄せてくれたのは、ただ護衛対象が弱っていると判断したからなのだ。
下心が滲み出る前に離れよう。
そう思った時に、ベッドに下ろされた。
布団をかけてもらって、体がとても冷えていた事に気がついた。
今度は震えが止まらない。
唇を噛んでいないと、上下の歯がカチカチとぶつかってしまう。
カカシが踵を返した。
置いていかれる。
ひとりにしないで。
咄嗟に伸びていた手で、カカシの服の裾を掴んでいた。
振り返って見下ろしてくるカカシの気配に、体が強張る。
憐れむ目、困った目、無表情。
どの視線も向けられるのが怖くて、顔を上げられないまま、ぱっと手を離した。
「すみません…」
頭まで布団を被り、ぎゅ、と目を閉じる。
わずかに物音がした。
結んでいた髪の先を梳かれる感触に、どきっ、と肩が跳ねる。
一度だけでなく、二度、三度、と続く。
布団から出ていた部分があったのだろう。
カカシに、よしよし、と頭を撫でてもらった気分だった。
「すぐに、戻ります」
優しくなだめるような声が耳のそばから聞こえてから、カカシが出ていったのがわかった。
じわじわと顔が熱くなってくる。
あたたかい血液が足の先まで行き渡っていく感じがした。
ふいに、朝食で見たカカシの幸せそうな顔が蘇った。
みんなが驚いていて、カカシを茶化すような雰囲気になってしまったのが残念だった。
だけど、最後に一度だけでも、ああいう喜びを共有できた事は、忘れられない思い出になる。
体の内側があたたまってきて、少しだけ気力が湧いてきた。
カカシとヤマトがいなくなっても、ナルトと木ノ葉丸がいる。
いずれ巣立つ日が来ても、心は繋がっていられる。
犯人の脅威がなくなったのだから、もう三代目の屋敷にだって帰れる。
そうしたら、家事や2人の世話をしてくれる人がたくさんいる。
使える時間が増えるのだから、ひとりで秘書の分まで働けばいい。
国の未来を作る子どもたちのために、この身を捧げる覚悟はできているのだ。
その時、控えめにドアを叩く音がした。
もぞもぞと上半身を起こすと、カカシが入ってきた。
湯気の上がっているカップを2つ、トレイに載せている。
本当にすぐに戻ってきてくれた。
「すいません、横になっていてください」
駆け寄ってきたカカシが、トレイをサイドテーブルに置いた。
慌てたように背中に手を添えてくる。
「もう、大丈夫ですから」
そうですか…? と疑いの滲んだ声が返ってきた。
背中の手が、躊躇いがちに、ぎこちなく離れていく。
「よかったら…、ホットのはちみつオレンジ、飲みませんか」
「ありがとうございます。いただきます」
カップを受け取ると、カカシもカップを持って隣のベッドに腰を下ろした。
初めての飲み物に、少し緊張しながら口をつける。
思わず、おいしい…、と呟いていた。
冷たいオレンジよりも、香りと酸味がまろやかになっている。
ほのかな甘みもあって、優しく体に浸透してくる。
何より、とても体があたたまる。
「…カカシさんって、よくオレンジジュースを飲んでますよね」
ラーメン屋さんでも頼もうとしていたし、クラブでも注文に迷いがなかった。
カカシと果物のジュースという組み合わせは意外だったので、はっきりと覚えている。
「お好きなんですね。アレンジレシピまでご存じだなんて」
「いえ。好きでも嫌いでもありません。どの国にもあるので、飲み物を選んだり考えたりする手間を省いているだけで」
「あ…。そうでしたか…。失礼しました…」
目を伏せた。
オレンジの水面が不安定に揺れている。
意識の高いビジネスマンは、日常生活の選択にかかる思考の負荷を減らして、仕事のパフォーマンスを上げている、という話を聞いた事がある。
カカシもそうなのだろう。
何気ない雑談のつもりだったけれど、結局は仕事の話になってしまった。
きっとカカシとは永遠に、仕事なしでは関われないようになっているのだ。
「そうではあるんですが…、イルカさんと飲むオレンジジュースは好き、です」
「え…」
驚いて顔を上げた。
カカシらしくない発言なのに、本人は平然としていた。
むしろ堂々と見つめ返される。
これまでとは違う雰囲気を漂わせるカカシに、妙な胸騒ぎがした。
「…話があるんですが、今よろしいですか」
切り出された瞬間、ぴんときた。
護衛契約に関する事だろう。
自然と背筋が伸びる。
「報酬はきちんとお支払いします。今日まで本当にありがとうございました」
言いながら痛み出した胸の奥を隠すように、深々と頭を下げた。
明日からカカシはいない。
ヤマトもいない。
ひとりですべてをこなすのだ。
「報酬は2週間分が先払いされています。期間満了前での終了でも金額は変わりません」
という事は、期間満了まではカカシと過ごせるのだろうか。
いや、カカシの仕事は終わっているのだから、引きとめる事は間違っている。
払った分だからといって無理やり働かせるのは浅ましい。
カカシにも次の予定があるかもしれないし、休みだって取りたいだろう。
「延長の場合は1週間ごとの更新という契約でした」
契約更新の話を出したという事は、カカシは延長してもいい、と思っているのだろうか。
でも、カカシを雇い続けるほどの経済的な余裕はない。
カカシは能力的にも価格的にも、最高ランクの護衛だと聞いている。
だから。
時々でいいから。
一緒に食事をしたい、なんて贅沢は言わない。
喫茶店でお茶をしたり、電話をしたり、メッセージをやり取りしたり、そのくらいは許してはくれないだろうか。
そこまで思って、ふと気がついた。
なんて独りよがりな望みばかりなんだ、と。
お金がないから浅い交流を維持しつつ会う時は単発で、だなんて。
カカシの気持ちや都合なんて、1ミリも配慮していないじゃないか。
そもそも仕事で世界中を飛び回っているカカシにはわずらわしいだけだろう。
唇を引き結び、身勝手さをすべて腹の底へと押し込んだ。
潔く、さっと顔を上げる。
「カカシさんには本当によくしてもらって感謝しています。もっと俺に稼ぎがあれば、継続してお願いしたい所なんですけど」
別れが深刻にならないように笑いながら、懐事情を正直に明かした。
こんな時でもカカシは愛想笑いを返したりはしない。
いつものように表情の読めない目をしたカカシが、カップを勢いよく呷った。
からになったカップをサイドテーブルに乗せて、すっと立ち上がる。
イルカのベッドの脇まで来ると、カカシがおもむろに片膝を着いた。
まるで王に服従を示す側近みたいに。
「オレを、イルカさんの秘書にしてくれませんか」
え?
秘書?
カカシが?
カップを持っていた手を、カップごとカカシの両手に包まれた。
握られた手も、向けられる眼差しも、怯みそうになるほどに熱がこもっていた。





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2022.03.07