午前中は予定どおり受付で。

腰の痛みはまだ後を引いていたが、業務に支障が出るほどではなかった。

昨晩、カカシが手加減をしてくれたのかもしれない。

受付にいる間はカカシが訪れる事はなかった。

午前中に忍者が来る事は少ないが、朝に顔を合わせなかったから様子見には来てくれるかと少し期待したのだが。

午後からは忍文字の講義で、子供達に実習をさせる。

つまり、書道の授業だ。

自分は先生面をして黒板を背に教卓に控え、生徒が持ってきた半紙に朱墨で丸を付けたり修正を施したりするだけでいい。

「忍文字は忍者になるための第一歩です。新しい忍術も忍文字から生まれるから、ちゃんと勉強して下さい」

新しい術という言葉をエサに、子供心をくすぐった。

好奇心と希望に溢れた忍者のヒナ達は、偉大な忍者像に弱いのだ。

生徒は一斉に筆を取り、黒い墨汁と白い半紙とにらめっこを始めた。

普段はイタズラばかりで手に負えない子供達が、こうして真剣に物事に取り組む姿勢は何とも言えない感動がある。

だからなのか、上手い下手はあっても、みんなに花丸をつけてしまう。

うちの生徒はこんなに素晴らしいと、他に自慢したくなるほど。

忍文字の授業は予想外に好評で、次はいつなのかと聞いてくる子までいた。

カカシの事でささくれていた心に潤いを得た気がした。

今日は授業が終われば仕事の予定はないので、早く帰って豪華な食事でも作ろうか。

そしてゆっくり話したい。

自分ばかりが喋らないで、沈黙を恐れずに、カカシの話をきちんと聞こう。

まずは料理だな、とレシピを思い浮かべた。







何食分にもなる大量の食材を抱え、頭では作業工程を思い浮かべる。

行き慣れた道は上の空でも足が勝手に家へ向かってくれた。

両手に荷物を持っていたので一旦地面に袋を置いてドアを開けると、玄関とは壁を挟んで見えない台所から物音がした。

何をやっているかは入って見ればわかると思い、下を向いて袋を持ち上げたら見慣れたサンダルが二足、きれいに並んでいるのが目に入った。

カカシの来客だろうか。

昨日も今朝もそんな話は聞いていないが。

アスマや紅は靴を揃えないので、違う人だろう。

誰かわからないが、ひとまず部屋に上がった。

さっきからずっと、台所から物音が聞こえ続けている。

食べ物のいい匂いもする。

そして、寝室のドアを開けてカカシが出てきた。

そこは昨日二人で抱き合った場所。

カカシは寝ていたのか、上半身裸で頭をバリバリ掻きながらこちらを見た。

「あ、おかえりなさい…」

「ただい…」

いつものようにダイニングテーブルに荷物を載せようとした。

しかし、そこには先客がいて、イルカは袋を抱えたまま固まった。

「カカシ、この人誰?」

「イルカ先生だよ」

カカシの声は冷静で、こちらばかりが混乱した。

「…ふーん」

自分達と同じ支給服を着た美人が台所に立っていた。

テーブルの上にはイルカが見た事のないような豪華な料理が並んでいて。

何かの揚げ物が鮮やかな色のソースで彩られていたり、みじん切りになった野菜の上に何かのすり身が盛り付けられていたり…。

女の人がここで何をやっているのか理解できなくて、でも、今日イルカがが作ろうとした料理と目の前にある料理を比べるとイルカの考えていた品は余りにも貧粗で。

材料すら場違いなほど。

喉の奥から何かが競り上がってきて息が詰まった。

耐えるように一度深呼吸をして、ゆっくり荷物を床に置く。

その足で玄関へ行き、脱いだばかりのサンダルを履き直した。

やっとわかった。

カカシが何を食べても何も言わない理由。

カカシは優しいからずっと黙っていたのだ。

それから、もう一つ。

カカシが今朝一人で出ていった理由も。

二人の視線を背に受け、無言で家を出た。

ドアは音をたてないように、そっと閉めた。

始めはぼーっと歩いていて、次第に早足になり、仕舞いには走り出した。

行く宛てもなく、ただ走った。

途中、つまづいて転んでも、ひたすら走った。

なんて滑稽なんだろう。

相手がカカシじゃなかったら、今頃は笑い話のネタに使われているに違いない。

息が切れて、その場に崩れ落ちる。

自分ではやはりカカシに合わなかったのだ。

頬を伝う涙の感覚が鮮明になる。

「カカシ先生…」

カカシは口数は少なかったが、いつも優しくて至らない自分を助けてくれた。

素直に嬉しかったし、幸せだった。

反面、そんないい思い出が別れを辛くさせる。

こんな事になるなら自分ばかり喋っていないで、もっとカカシの話を聞いておけばよかった。

考えてみれば、自分が知っているカカシの事なんてほんの僅か。

意図して話さなかったのか、元から話さない人なのか。

前者だったら…、ツライ。

今まで、同僚や友達から恋愛話はたくさん聞いた。

中には失恋の話もあった。

失恋は何度しても慣れない、という言葉は印象的だった。

恋愛経験が豊富だろうが貧困だろうが、失恋はみんな平等に苦しいものだと。

果たしてカカシにとってイルカと過ごした時間がそうなのかはわからないが。

仕事と時間と新しい出会いがその痛みを和らげていく。

現実を真っすぐ見つめて、自分の脚でしっかり立ち上がらねば。

そのために、まず、何ができるだろう。

そうだ、今夜一晩ぐらいは野宿でも構わないが早く新しい部屋を見つけなくては。

今度の家は狭い方がいい。

同居など絶対に不可能なぐらい狭いのが丁度いい。

「ははっ」

自分の声とは思えない乾いた声が鼓膜を鳴らす。

案外、一人でも大丈夫かもしれない。

楽しい事を考えて、いつでも笑っていれば時間は流れていく。

「大丈夫…」

口に出す事で全身に言い聞かせた。












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2003.01.05