痛い。

昨晩はあの場所で木の幹に背を預けて丸くなって眠った。

腕、肩、背中、腰、尻、腿、脛、足首。

筋の類はみんなが軋んだ。

出勤する前に温かい湯に浸って体を解したい。

今帰っても朝が弱いカカシは風呂に入っている物音では目覚めないだろう。

「…あ…」

しかし、ばっと頭を過ぎる。

カカシは目覚めなくても…

まだ一緒なら、料理上手の彼女が目を覚ますかもしれない。

そんな出歯亀は避けたい。

家に帰るのは諦めて、アカデミーで宿直用のシャワーを借りよう。

そう決めた時、顔がやけに冷えるなぁと思って手で触れてみた。

頬が濡れていて、そこに風が当たって冷たいようだった。

仕方ないので、気休めに袖で頬を拭った。







今日は一日授業が入っているので受付でカカシと顔を合わせる事もない。

筆記試験の採点もないし、授業が終わればすぐに不動産屋さんへ行ける。

狭くて安くて日当たり良好の部屋がいい。

太陽に起こされ、月に見つめられて眠る生活。

何もない一人の部屋でも、きっと淋しくない。

今は授業に集中しなければと思うのだが。

いかんせん、チョークを持つ手に力が入らず、時に震えていたりすると、つい気が逸れてしまう。

誰も咎めないのが、いいのか悪いのか。

声だけしっかりしていれば子供達は騙せてしまう。

罪悪感が積み重なるばかりだった。







実のない一日が呆気なく終わり、重い足を引き摺って不動産屋に入った。

窓に貼ってある物件では気に入ったものがなくて。

生温い緑茶でもてなされ、主人が分厚いファイルを持ってきた。

色々と紹介してもらったのだが、やはり納得のいく物件はなかった。

今日は諦めて帰ろう。

いつもなら途中の商店街で夕飯の買い物をして帰るのだが、食欲もないし作る気も起きないので、今日はそのまま帰った。

目を懲らして見たら部屋の明かりは消えていて、安堵の溜め息が洩れた。

昨日のように見知らぬ人に突然出くわさないように、慎重に気配を探った。

鍵を開けて玄関で電気を灯ける。

やはり誰もいなかった。

何気なく周りを見渡したが、別に変わったところはなかった。

ただ、昨日の買い物袋が無くなっている事ぐらい。

冷蔵庫に入れてくれたのか、そのまま捨てられたのか。

そんな事はどうでもいいと思い、風呂へ入った。

湯に浸かりたいと思ったが、湯を張るのが面倒でやめた。

出たらすぐに寝ようとしたが、考えてみれば、一つのベットしかないのにそこに自分が寝るのはいけない気がした。

押し入れから客用の布団を引っ張り出し、台所のフローリングに敷いた。

フローリングの上は熱を奪っていくばかりで全然温まらないものだが。

冷たくても布団で眠れるだけいい。

全く温まらない布団にもぐると、正直な心は惨めさに涙を零した。







どれくらい経ったのか、体がもごもごする感覚に目が覚めた。

布団からはみ出して、すっかり冷えた手で目を擦った。

「…ヒッ!」

恐怖に声が上がった。

目をギュッと瞑る。

「…イルカ先生」

カカシの顔が鼻先10センチの距離に。

いつの間にか自分はベットで寝ていて、右腕以外は羽毛布団でぐるぐる巻きにされ。

そこにカカシがのしかかっている。

カカシは布団の上から両腕でイルカを抱き締め、逃げられないようにイルカの背中で手を組んでいた。

じっとり見られると、蛇に睨まれた蛙状態。

恐くて食いしばった歯が、がたがた音を立てた。

「イルカ先生…」

何を言われるのかと、心臓がズキズキする。

苦しい。

「…助っ…け…」

怖くて、苦しくて、涙が出た。

息も上手く出来なくて、意識が遠くなる。

「…イルカ先生…」

カカシが僅かにずり上がった。

自分でもよくわからないが、『もう駄目だ』と思った。

「…っ」

「イルカ先生…」

瞼に何か柔らかいものが当たる感触。

それがカカシの唇だと気付いたのは、何度か繰り返された後で。

「イルカ先生…」

先程から名前しか言葉を発さないカカシに違和感を感じた。

改めて聞いてみると、その響きのなんと切ないことか。

カカシの腕がイルカの頭を包み込む。

カカシはイルカの肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。

「どこに行ってたの…?心配したよ…」

「カカシ先生…」

迷ったが、それでも恐る恐る唯一自由な右手でカカシの頭を撫でた。

「イルカ先生…」

「カカシ先生、何も言ってくれないから…。嫌なものは嫌と言って下さいよ…」

カカシの顔を見ないように目を閉じる。

話下手なカカシだから、言い出しにくい事はイルカの方から切り出さなくては。

カカシの気分を害さないようにお喋りな自分を押し込めて、用件だけを凝縮して。

「…別れますよ…」

「?」

「あなたとは別れます」

「?…イルカ先生?」

カカシの腕と布団からずるずると抜ける。

上半身を起こして、もう一度目を閉じた。

「別れるって…」

「これ以上カカシ先生に我慢とか、してほしくありません」

目を閉じていても悲しさは和らぐ事もなく、目元に水分として集結してくる。

それが零れそうになったので俯いた。

さっき、お喋りを押し込めると決心しておきながら、話したい事や聞きたい事がどんどん湧いてくる。

「昨日の彼女とは、いつ頃からお付き合いされてたんですか?…あ、いや、別にカカシ先生を責めてるわけじゃないですから…。ただ、どのくらいかなと思っただけで…」

昨日知り合ったのか、自分と付き合う前からなのか。

聞いたところでどうにもならないが、傷付くのは本人から聞いても噂で聞いてもいつ聞いても同じ事。

「イルカ先生」

本当にカカシは先程から名前ばかり発する。

「俺もあの人みたいに料理上手ならよかった…」

そうしたら違う結果があっただろう。

「イルカ先生」

もう一度名を呼ばれ、なぜか胸に罪悪感が広がった。











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2003.01.10