日が沈んでから間もなく。 目的地のこじんまりとした温泉宿へ到着した。 移動の汗を流すため、女将の案内もそこそこに、素早く浴衣に着替え浴場へ向かった。 すのこ敷きの通路を歩いていると、特有の下駄を蹴った音がカツカツ響いた。 その音が気に入ったイルカが、足踏みしたり駆け足をしたりしている。 「イルカ先生〜、足元に気を付けて下さいよ〜」 イルカは子供のようにはしゃいでいる。 普段の先生顔からは想像出来ない姿だ。 そんな一面を抵抗もなく晒してくれるから、自分はイルカにとって特別な存在なんだと実感する。 すのこの渡り廊下が終わるとすぐに大浴場と書かれた暖簾が見えた。 それを潜ると御婦人、殿方と書かれた二つの暖簾があり、冗談で女湯に入ろうとしたらイルカに叱られた。 脱衣所は湿気に満ちていて、肌寒かった外気を受けた体には丁度良かった。 一周見渡したが、自分達の他に客はいないようだった。 どの籠に着替えを入れるか迷っていると、裸の腰にタオルを巻いたイルカが桶を持って 浴場へ入っていった。 気のせいか、目が輝いていた。 こんな時だけ動きが早いのは狡いと思う。 イルカの事だから、恥ずかしがって中々裸にならないと思ったのに。 恋人同士が二人で風呂に入るのに、脱衣所からイチャイチャしたかったささやかな期待は見事に打ち砕かれた。 業とらしく肩を落として、湯煙りの中へ侵入していく。 イルカは入口を背にして湯に浸かっていた。 頭上にはタオルを乗せている。 髪はまだ解いておらず、湯気で霞む真っ直ぐなうなじは凛として見えた。 軽く体を流し、イルカに倣って湯船に入る。 乳白色の湯は視覚的にも温かい。 「ああ〜、いい湯ですねぇ」 「カカシ先生には熱過ぎやしませんか?」 「うーん、そうかも。ま、のぼせる前には上がりますよ」 家でもそう。 イルカは熱めの湯が好きで、自分は温めの湯が好きだった。 「こういう風呂でも、イルカ先生は姿勢がいいんですね。うなじにドキッとしちゃいました」 「…なっ!」 二人の距離を縮めようと、含み笑いをしながらイルカに近づいた。 イルカは負けじとカカシが詰めた分だけ横にずれていった。 イルカの右腕が湯船の隅に当たった。 「もう逃げられないですよー」 ニシシッと笑うと、イルカが両手を突っぱねてカカシを遠ざけようとした。 その反動でイルカの頭上のタオルが湯に落ちた。 「あー、イルカ先生、タオルを湯に付けるなんてマナー違反ですよー」 「そ、そんな事より、こんな広い湯船でくっついて入ってる方がマナー違反です!」 「そうですかー?」 タオルを拾おうとするイルカに一瞬の隙が出来る。 「うっ、んんんっ!」 両手で肩を引き寄せて、離れられないようにして唇を重ねた。 舌でイルカの下唇をなぞると、喋れるようになったイルカが言葉の抵抗を始めた。 「カカッ、シ先生!人、が来たら…!…くっん!」 うるさい口は塞いでしまえ。 湯と汗で滑らかになったイルカの肌が、カカシの手や指にしっとりと吸い付いた。 誰もいない事だし、このまま始めてしまおうかと思った。 しかし、次の瞬間目の端に映った、ガラス戸越しの人影にぐっと思い留まった。 名残惜しげにイルカを解放する。 「ビックリしたじゃないですか…」 「ここで始められちゃうかと思った?」 イルカは薄っすら涙の浮いた眼を伏せ、全身を真っ赤にした。 「続きは部屋で、ね」 イルカが勢いよく湯から上がった。 ザバーっという水の音が響き、それと同時にガラス戸から人が入ってきた。 イルカはピタ、ベチ、などと音を立てタイルを歩き、その客と入れ違いに浴場を出ていった。 一人になり、先ほどのキスを思い出すように自分の唇に触れた。 イルカの事となると、自分はすぐに辛抱弱くなってしまう。 改めようと、何度思った事か。 「ふー…」 ゆっくり息を吐き、情緒を安定させた。 今日はお互い疲れている事だし、ほどほどにした方がいいかもしれない。 昨晩は散々付き合わせてしまったし、自分もイルカとの温泉旅行を楽しみたい。 長風呂というのもたまにはいいかと、カラスの行水の自分が思うほど。 やはり、忍者を休む事も必要だ。 そういえば、ここの旅館は一部屋ごとに露天風呂があったはず。 広くて開放感のある風呂もいいが、狭くて密着した風呂もいいものだ。 一人作戦会議とばかりに、高い天井を見つめてのんびり思考を巡らせた。 * * * * * 「遅かったですね?」 料理の載った皿をなぜか配膳しているイルカが、こちらを振り返った。 そして、背が低くて若い仲居と親しげに作業を進めている。 彼女は着物の裾を紐で押さえた、仲居独特の出で立ち。 「え、ええ…」 久々の長湯で指先に皺が寄っているが、風呂にいたのは精々二、三十分だろう。 その間に、テーブルには豪華な食事が並べられていた。 つまり、その二、三十分間イルカはこの女と、広くないこの部屋で二人っきりでいたという事か。 「イルカ先生は客なんですから、そんな事までしなくていいでしょ」 イルカは困った顔で仲居に何か言った。 二人の、この親しげな空気は一体何なのか。 「もう終わりますから」 そう言って、イルカが箸置きに箸を載せた。 「申し訳ありません、手伝って頂いて…。では、食後にまた伺いますので」 失礼します、と言って大きな盆を抱えて出て行った。 仲居の目が輝き、心なしか浮かれているようにも見えた。 従業員と言えど、小娘と変わりなという事か。 侮れない。 「さ、カカシ先生頂きましょうよ」 イルカは何事もなかったように振舞う。 自分は唇を尖らせ、無言でイルカの向かいの座布団に腰を下ろした。 箸も取らず、ただ料理をじっと見つめる。 この刺身はあの女が置いたものなのか、この汁はあの女がよそったものなのか、この湯豆腐はあの女が火を入れたのか。 「カカシ先生?食べないんですか?」 イルカが可愛らしく小首を傾げた。 「えっ、いえ…」 イルカに薦められても、やはり躊躇ってしまう。 「もしかして、さっきの仲居さんが気になりますか…?」 「…まぁ…」 図星を指され、バツが悪くなった。 イルカが手に持っていた箸を置き、姿勢を正した。 目には力が篭る。 「そりゃぁ、あんな憧れの眼差しを向けられたら気になりますよね。でも生憎ですが、カカシ先生の分は全部俺が運びましたから」 予想外の事を言われて驚いた。 「え、イル…」 「カカシ先生が長風呂なんて、何かあったのかと思いましたが。やっぱり何かあったんですね」 自分は気付かなかったが、違和感があったらしい。 「きれいな女性に声でも掛けられたんでしょう」 「違います!」 「…気安く素顔を晒すから…」 目を泳がせたイルカが小声で言った台詞を聞き逃さなかった。 「イルカ先生、妬いてるの?」 イルカは横を向いて唇を尖らせた。 「悪かったですね」 「いいえっ、とんでもないですっ。嬉しい」 イルカの横顔がしかめられ、さっ、とこちらに向き直る。 「俺は心配なんです」 「オレが浮気しないかって?」 「っ…」 イルカが傷ついた顔をした。 しまった。 イルカが席を立とうと、テーブルに手を置いた。 「すいません、イルカ先生っ。気遣いが足りなくてっ。あの、誤解しないで下さい!」 「…」 イルカは一度浮いた腰を元へ戻した。 「イルカ先生、落ち着いて食べましょう。話しながら」 「…」 「何かあったから長風呂だったわけじゃなくて、広い風呂なんて珍しいから、たまにはいいかと思って入ってただけなんです。…っ、本当です!」 疑いの眼差しが。 イルカが箸を取り直し、刺身を一切摘まんだ。 どうやら、イルカの曲がったヘソは快方に向かっているようだ。 「あのね、さっきの仲居が気になったのは」 「やっぱり」 「違います!ちゃんと聞いて下さい!あれはイルカ先生が仲居と親しくしてたから、何かあったのかと気になってたんです」 「あるわけないでしょう!…アナタじゃないんだから…」 機嫌が悪化したのか、イルカの箸が止まった。 「イルカ先生、なんでそんなに信用してくれないんですか…?オレ今まで一度だって浮気なんてしましたか?」 「…俺にはわかりません。アナタはそういうの上手そうだから」 イルカの鼻がズズッと鳴った。 「すいません、…ああ、困ったな。こういう時ってどう言ったらいいんだろう…」 何を言ってもイルカを傷付けてしまいそうで、必死に言葉を選んだ。 でも、まずは言葉より。 「…」 瞬時にイルカの後ろへ回り、両腕で包み込んだ。 じわじわと力を入れていく。 「カカシ先生…」 髪に口付けを落とす。 伸ばした手にイルカの指を絡める。 「ずっとね、一緒にいたいんですよ。いつでもこうやって」 イルカが振りかえろうとしたので、その頬にキスをした。 「決ーめた。今日はイルカ先生の横でメシ食います」 「??」 「煩わしがらないで下さいよ?離れたくなくなったのはあなたのせいでもあるんですから」 「え?」 「腕も足もくっつくぐらい傍で食べますからね」 自分で座布団と箸を取りに行き、イルカの真横にべったり陣取った。 戸惑っているイルカを余所に、一人で勝手に箸を進める。 黙って見ていたイルカから、ふーっと息を吐く音が聞こえ、箸を取るカチャっという音が続いた。 「早く食べないと、イルカ先生の分まで食べちゃいますよー」 イルカの手が湯豆腐に伸びた。 「へへっ」 「…何笑ってるんですか」 「イルカ先生〜、大好きー」 チラ見したイルカの頬は薄っすら染まっていたが、目も少し赤かった。 イルカには災難だったかもしれないが、自分の方はこんな素敵な人と巡り逢えて本当によかったと思う。 「イルカ先生、この部屋に露天風呂があるの知ってました?」 「…はい。さっき見つけました」 「後で一緒には入ろうね」 「…」 意味深にイルカに体を摺り寄せた。 |