気まずくて、カカシから目を逸らしてスタッフルームに逃げ込んだ。 だが、こんな時に限って広間には誰もいなかった。 カカシと2人きりになってしまうじゃないか。 「おかけになってお待ちください…」 カカシに声をかけ、マネージャーがいる事務室へと向かう。 マネージャーの顔を見て、ほっとしていると、カカシ用の入館証を渡された。 やはりすぐに出来上がった。 がっかりさせてしまうだろうか。 これをカカシに届けたら今日の手続きは終わりでいい、との事だった。 カカシの所へと戻り、おそるおそる入館証を差し出す。 「もう完成したみたいです。…カカシさんの、入館証」 「よくできました」 カカシの口調はひどく優しくて、声で頭をよしよしと撫でられたような心地がした。 頬がじわじわと熱くなってくる。 ひとまず、がっかりした様子もない。 よかった。 「次の出勤は土曜で、朝9時からです。裏口から入ってください」 「土曜…朝9時…」 急にカカシが暗い声で呟いた。 出勤時間としては一般的だろう。 いや、そうだとしてもカカシの仕事の時間帯とはかなり差があったのかもしれない。 「時間、変えますか」 「いえ、大丈夫です。イルカさんと会える時間は削りたくないので」 かぁー、と火がついたように顔が熱くなる。 違う、違う。 カカシはスーツアクターとしてのイルカに会える時間を削りたくないと言っているのだ。 やる気があるだけなのだ。 勉強熱心なだけなのだ。 惑わされてはいけない。 変な捉え方をしたらカカシも迷惑だろう。 「今日は…これで終わりでいいとの事です」 「イルカさんも、もう終わりですか?」 「はい。もう帰ります」 「あの、もしご都合よかったらですけど、このあと食事でもどうですか?」 食事。 カカシと。 行ってはいけないのではないだろうか。 なんでも簡単に勘違いしそうになる自分は。 でも別に行けない理由はないし、どちらかというと行ってみたい気持ちのほうが強い。 「イルカさんに色々と聞きたい事があって…。ダメですか…?」 「ダメじゃないんですけど…」 「じゃあ、いい…?」 甘えるように響くカカシの声に心が揺れる。 強要されているわけじゃない。 弱みにつけ込まれているわけでもない。 それなのに、承諾する以外の答えがない状況に追い込まれている気がしてくる。 自分がそう思いたいのだろうか。 どちらにしても、もう答えはひとつしかない。 「…はい」 「よかった。じゃあ行きましょう。といっても、オレあまりこの辺は詳しくないので、お店を教えてもらえると助かるんですが」 「あ、はい。何か食べたいものはありますか」 「オレはなんでも。イルカさんがいてくれれば」 口を噤んだ。 今日はこれで何回目だろう。 もう、ホストが怖い。 イルカがいればいいだなんて、食事よりイルカとの時間のほうが重要だと言っているみたいじゃないか。 いや、カカシに必要とされているのは、着ぐるみの自分だとわかってはいるけれど。 そんなに自然にさらりと言われたら。 カカシが日常的に使う言葉がイルカには非日常で、自意識が過剰になってしまう。 「イルカさんは何か食べたいものありますか?」 「俺の食べたいものだと…、大体がラーメンになっちゃいますけど…」 「いいですね。ラーメン行きましょう」 「いいんですか? 食事制限とかされてないですか?」 「してないです。そろそろしたほうがいいのかもしれないけど。イルカさん、ラーメン好きなんですか?」 「はい。とても。特に一楽のとんこつが好きで」 あの味を思い出すだけで、幸福感で頬が火照る。 「…すごい嬉しそうな顔。ほんとに好きなんですね」 「そ、そんな顔してましたか…。お恥ずかしい…」 「かわいいなぁ」 嘘だ。 一般の野暮ったい男が、着ぐるみを装着していない状態で、かわいいなんてわけがない。 カカシはきっと、道端の石ころを見ても同じように言うのだ。 そう自分に言い聞かせて、なんとか平静を保つ。 「イルカさん」 「っ…はいっ」 「LINE、交換しませんか」 その言葉が耳に入って、脳を経て、理解した瞬間。 ぎゅ、と胸が軋んだ。 これまでのカカシの言動のすべてに合点がいった。 「…俺に営業かけても、ホストクラブなんて行けませんよ。安月給なので」 血の気が引くみたいに、すぅ、と体温が下がっていく。 なんだか目の前が少し暗くなった。 「えっ…? えっ、いえ…っ、ちがっ、そうじゃなくてっ」 「ジェンダーレスの時代ですもんね。ホストさんも性別に関係なく営業かけたりしますよね」 「たしかに時代はそうですけどっ、イルカさんは違くてっ」 何が違うと言うのだ。 カモにするには簡単な相手だと思ったのだろう。 危うく引っかかる所だった。 まんまとホストの手腕に踊らされて、バカみたいに浮かれてしまった。 「固定客が充分にいるのでっ、オレもう営業はかけてなくてですねっ」 「そうですか」 冷えた内心と同じく、抑揚のない声が出た。 カカシの言葉を信じていない事が、さすがにカカシにも伝わったかもしれない。 でも別に構わない。 「本当ですっ、ああっ、本当なんです…っ」 カカシはかなり取り乱しているように見えた。 両手で頭を抱えて悶えている。 これも売上のためのアクションなのだろう。 ならばむしろ問いたい。 営業でなかったら、なんだったというのだ。 疑似恋愛がカカシの仕事なのはわかっている。 でも、恋愛に不慣れな自分からしたら、カカシの言動のすべてが好意を寄せる相手を口説こうとしている様子に見えた。 相手にまったく困らなそうなカカシが、わざわざイルカに対してそんな事をする理由がないのに。 これだけ容姿が整っていて、高学歴で、おそらくは高収入なのだろうから。 「でもそうですよね…。ホストなんて信用ないですよね…。いきなり連絡先を聞いたら営業だと思いますよね…。すみません…」 この気落ちしているような姿も、全部きっと営業のため。 それとも、そう思うのはホストという職業への偏見なのだろうか。 もしカカシが別の職業だったら、今の流れでなんの抵抗もなく連絡先を交換していたのだろうか。 正直、わからない。 交換したかもしれないし、しなかったかもしれない。 だってまだ、ほとんど何も知らない人なのだ。 次は土曜日の朝9時に出勤と決まっていたって、実際に来てくれるかどうかもわからない。 「なんていうか…、今日初めて会ったばかりですし…」 「はい…。急ぎすぎました…。すみません…」 カカシが頭を下げてきた。 偏見の目で見てしまったかもしれない罪悪感に、こちらからも頭を下げる。 「まだ連絡先はいいので、聞きたい事がある時は今日みたいに仕事のあと一緒に食事に行ったりして聞いてもいいですか…?」 「…そのくらい…なら…」 「よかった…。急にすいませんでした。ラーメン、行きましょう?」 てっきり、今日はやめておきましょう、という話になるかと思った。 カカシの着ぐるみに対する気持ちは本物なのかもしれない。 新人と指導役という関係上、このまま気まずくなるのは避けたかったから助かる。 でももしかしたら、そう思う事すらカカシの手のひらで転がっているだけなのだろうか。 今日も一楽はうまかった。 おかけでラーメンに集中しすぎてしまい、聞きたい事があるというカカシの話をろくに聞けなかった。 「まだ時間あったら、このあとお茶でも飲みに行きませんか…?」 一楽を出た所で、カカシが声をかけてくれた。 渡りに船というか。 言わなくても気持ちを汲んでくれているような展開に、改めてホストとしてのカカシの有能さを思い知る。 「あ、はい。聞きたい事があるんですよね。すいません、ラーメンに夢中になってしまって…」 「ラーメンが来た時のイルカさん、きらきら、きゅるるーんって感じでかわいかったです」 「なっ…」 恥ずかしい事を言われた気がして、かぁーっと頬が熱くなった。 カカシの指導役を任されたのだから、こういう独特な言動にも慣れていかないといけない。 いや、もしかして、呆れているという事を遠回しに言われただけだろうか。 「…お見苦しい所をお見せして…失礼しました…」 「いえ、大変よいものを拝見させていただきました。ごちそうさまでした」 どこまでもホストなカカシの対応に、ため息が出る。 その吐息が熱っぽくて、途方に暮れそうになる。 ご馳走していない時の「ごちそうさま」とは、一体どういう意味なのだろう。 カカシの言動に慣れてくればわかるのだろうか。 それとも、挨拶みたいなもので意味などないのだろうか。 「この辺って、喫茶店とかありますか?」 まったくの平熱のカカシの声に、こちらも少し頭が冷えてくる。 「チェーン店なら駅前に…」 「ではそこにしましょう」 駅に向かって歩き始めた。 「イルカさんのお住まいは荒波から近いんですか」 「そう…ですね。歩いて15分くらいです」 「オレも通勤がラクになるように、荒波の近くに部屋を借りようと思っていて。この辺りの事を何も知らないので、イルカさんの家の近くに住めたら心強いなと思っているんですが…」 「うちは、あの信号をすぎて1本目の路地を曲がって、2本目を右に入った、突き当たりの左側です」 近くがいいとの事だったので、つい詳しく説明してしまった。 土地勘のないカカシには全然わからなかっただろう。 そう思っていたら、カカシがスマホを出した。 ぱ、ぱ、ぱ、ひゅ、ひゅ、ひゅ、っと操作して、画面を見せてくる。 「ここですか? ひじき荘…?」 「あ、そうです。そこの2階です」 すごい。 今の説明を一瞬で覚えて、地図上に表示させるなんて。 さすが最高学府の出身者だ。 「実家ですか? ひとり暮らし?」 「ひとり暮らしです。8年目になります」 「8年…? って、大学生からですか?」 「いえ、中学を卒業してからなので、高校生からです」 「今23歳?」 「はい」 「4コ下なんだ。高校生からひとり暮らしとは早いですね」 「早くに両親を亡くしまして」 口の上手いカカシに乗せられて、気がついたら話していた。 言ってから、しまった、と内心焦った。 この話をすると、腫れものに触るように気を遣われる事が多いのだ。 初対面の相手にする話じゃなかった。 「そうでしたか」 すいません、と謝る前にカカシの相槌が返ってきた。 しかも至って普通の声に、こちらのほうが驚いてしまう。 「大変ですよね。親がいないと。うちは父子家庭だったんですけど、幼稚園の年長の時に父を亡くして」 「そうだったんですか」 腑に落ちて、ほっと肩の力が抜ける。 カカシも似たような境遇だったのか。 懸け離れた人だと思っていたのに、急に親近感が湧いてくる。 「ひとりで生きていかなきゃいけないから、父が亡くなる前に名刺をもらっていた事務所に連絡して、小さい頃からモデルとか役者みたいな事をしていて」 カカシの幼少期を想像した。 きっとかなりの美少年だったのだろう。 「子どもでも合法的に稼げる仕事って少ないじゃないですか。しかも芸能は実入りがよかったので収入を下げたくなくて、大学を卒業してからホストになったんです」 「そのまま芸能のお仕事には進まなかったんですね」 「はい。芸能を本業にしたら、顔バレで私生活が面倒になりそうだったので。その気配が漂い始めていたのもあって。学生のバイト感覚ならよかったんですけど」 これだけ容姿に恵まれていると、そういう不便があるのか。 だからといって、そこからホストになる人も、なかなか珍しいのではないだろうか。 「火之国大からなら、他にもいろんな高収入の仕事に就けそうですけど…」 「ホストが一番稼げそうだったので。潰しが利くように一応、在学中にいくつか資格も取ったんですけど。けどオレ、夢があって」 カカシが少し照れたような柔らかな笑みを浮かべた。 なんて素敵な顔をするのだろう。 そんな顔をして思いを馳せているのは、一体どんな夢なのだろう。 恥ずかしさも引け目も抜きにして、ぼうっとカカシに見惚れていた。 |